祥一郎・・・・・・・・・
今年の桜を私はまともに見られないと先日書いた。
つい先日満開になった東京の桜が、つい二三日前の雨と寒さでいつもの年より早く散っていく。
俯いて歩きながら、流れとなった雨水に花びらが大量に澱んで、行き場を無くしているよ。
我田引水だろうか。
私の哀しみ・・・祥一郎、お前を喪った悲しみをまるで桜が悼んでくれているような・・・・・・
「私達はまた来年、必ずやってくるわ。でも貴方のあの人と暮らした花のような年月はもう戻ってこないのね。
だから今年は、貴方にできるだけ見られないように早く去っていくの。」
桜の木がそう語りかけているような・・・・・
ありがとう、今年の桜よ。おかげでお前を妬ましく思う事はあまりないかもしれない。
そして次に盛りを迎えるツツジの花はどうだろうか。
我関せずとばかりに、連綿と咲き誇るだろうか。視線をやや落とした位置に一番見えやすいツツジの花。
私はもっと視線を落とすことになるかもしれない。
そして雨の季節、アジサイはひっそりと咲きながら、涙の雨にくれる私の悲嘆に共感を示してくれるだろうか。
夏の盛りのひまわりは、「もっと上を向いて進め。きっと陽の光はお前に降り注ぐはず。」とばかりに
私を励まそうとするのだろうか。あと数カ月先には夏がやってくる。その頃のそのひまわりの逞しさに私はどう反応するのだろうか。
きっとひまわりの励ましに私は追い詰められ、心は更に悲哀に染まるかもしれない。まだその頃の私には、励ましというものは鞭打つ痛みを感じさせるだろう。
近くの河川敷に、秋になると彼岸花が大量に咲き乱れる。
あの真っ赤な花、血に染まったような花、その葉の無い花を摘んで、あいつの、祥一郎の仏前に供えるかもしれないな。
そしてこんなことを祥一郎に語りかけるかもしれない。
「祥一郎、もうこんな季節になったよ。花の盛りは短いけれど、長い長い季節の移ろいだった。
おっちゃんの心はあの頃となんら変わらない。時間は止まったままだもの。
祥一郎・・・・何が変わっても、お前と暮らした年月はおっちゃんの中でそのまま残っているよ。そのままでいいんだ。なにも変わらなくていいんだ。身体は衰えても、あの花のような年月の中でおっちゃんは生きて行くんだよ。」
お前と暮らしたあの頃のおっちゃんの心と、お前を亡くした今のおっちゃんの心を切り離し、身も心もあの頃に戻っていくんだよ。
そう心から思ってる・・・・・・・・・・・・・・・・