毛津有人の世界

毛津有人です。日々雑感、詩、小説、絵画など始めたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

ナシ・レマ(Nasi Lemak)

2025-01-24 06:27:27 | 貧乏について

油彩 15x20cm 2021年

Wikipediaによれば、「ナシレマは、マレーシアの日常的な食事として、朝食や昼食に食べられています。ココナッツミルクの甘い香り、唐辛子の辛み、ピーナッツや煮干しの香ばしさなど、さまざまな味と食感が特徴です」と、AI がこたえている。

初めてこれを食したのはマレーシアのマラッカから高速船でインドネシアのスマトラ島に移動した時船内食として支給されたことによる。その時は大変シンプルで粗末な食事だと感じただけだったが、その後マレーシア滞在時、これが一番の好物となりよく朝食にいただいた。マレーシアのローカルなコーヒーショップではこれをバナナリーフと新聞紙で包装したものが各テーブルにに乗っているので、コーヒーを注文しこのナシレマを一つとればそれで立派な朝食になるのだ。

ナシレマ1RM, ローカルコーヒー1RM, 合計で2RM, 日本円で60円だ、安いことこの上ないので貧乏旅行者の僕はこれを大変寵愛した。 日本でいえばコンビニで売られているおにぎりの気安さだろうか。マレーシア滞在中はかく親しんだので帰国後もその味が忘れられず、とうとう2021年には自作してみた。

これが大成功で、現地で食べるのと少しも遜色のないマレーシアの国民食が我が家で楽しめることになった。万歳、万歳、という気持ちだった。

 
 

 

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30年の変遷

2025-01-23 08:46:41 | 貧乏について

油彩 26x36cm 2016年

僕は東南アジアのあちこちの国で仏像を見て来たが、日本の仏像に関してはこの像に非常な愛着を覚えた。それで一気に描いてしまった。毎日見ているが一向に飽きが来ない。30年も前に中国を訪問した時は文化大革命の後遺症で上海市内の仏教寺院は修復がたいへんだったようだ。蘇州の有名な古寺寒山寺を訪ねたら本堂が土産物売り場になっていて興ざめしたのを覚えている。そのころ喫茶店に入っても汽車に乗ってもお茶を頼めば、ガラスコップに茶葉を一つかみ入れて大きなやかんから熱湯を注ぎ入れただけのものを提供された。もちろん有料である。驚いたのは南京の最期の夜同行の中国娘三人を連れてカラオケに入ったら、これがみなこのお茶をすすりながらカラオケを楽しんでいたことだ。少しもアルコールがなかったように思う。同行の中国娘から中国に残って日本語の教師にならないかと打診されたが、聞いてみれば彼らの一か月のサラリーの平均は自分の年齢の日本人サラリーマンに比べて60分の一しかならないのだった。30数年前まではどこへ行っても日本人の境遇はだんとつであって、お隣の韓国なども最貧国の一つであり、若者の男性たちはみな停戦下ということで迷彩服を着ていたし、自分が宿泊した外国人用ホテルのすぐ隣ではまだ七輪を使って朝晩の煮炊きをしていた。ところがそれから30数年経過してみれば、それらの貧しかった国々が日本を追い越しているのだから全く諸行無常、明日のことはわからないという気持ちにさせられる。

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摸写 study after Émile Munier (1840–1895) French

2025-01-23 05:44:20 | 貧乏について

oil 40x50cm 2010

2009年に帰国して真っ先に会いたいと思っていた長年の友人に電話したら事務所にも自宅にも繋がらなかった。業界紙時代に同じ職場で懇意にしていた友人で二人とも小説家になりたいと思っていたから話があった。その彼がバブルの時代に独立して企業のPR 誌の企画編集出版業を営むようになった。大変実入りのいいように聞いていたので僕は嬉しかった。その彼に真っ先に会いたいと思っていたのだが、電話が繋がらなかった。住所を知っていたのだから訪ねていけば何か情報を得られたかもしれないのに、僕はアパートへも事務所にも足を向けなかった。そしてそれっきり彼との関係は終わってしまった。ところが彼のことはいまだに完全に忘れ去ることができないでどうかして再会できる手立てはないものかと考えるのだけど、今は昔と違って電話帳も機能しないから、探しようがないわけである。可能性があるとすればSNSなのでフェイスブックやGoogleなどで調べてみたが、どこにも彼の名前は見出せなかった。バブルが弾けて彼がやっていたような紙産業は一番初めに淘汰されたことは容易に想像がついたのだけど、随分と実入りの良い暮らしをした後では一からサラリーマン稼業への復帰も難しいだろうから、それを思うと今どうしているのか案じられてならないのである。無事であってほしいと願うばかりである。

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下を向いて歩こう

2025-01-20 07:01:21 | 貧乏について

油彩 26x36cm 2014

中学に上がる直前まで僕は建て増した二階家の六畳で住み込みの大工さんたちと一緒に寝起きしていた。そのころ僕は大工さんたちに朝勃ちをよく冷やかされたものだけど、中学に上がったころは家の近くに親父がかなり広い空き地を借り受け材料置き場と職人部屋を造ったので、僕はその6畳間を一人で独占できることになった。そしてそこには親父が仕事先の施主からタダでもらってきた古い応接セットや78回転の蓄音機などがはいるのである。ちょっとしたプチブルの生活を体験するのだけど、まだそのころは戦災を免れて焼け残った大きな民家に何所帯もの家族が住み込んでいるという貧困も存在したのである。また戦争孤児を集めた孤児院から通ってくる同級生もいたのだった。ある時同級生の女の子の誕生日パーティーに招かれたので出かけたら、6畳一間に家族全員が寝起きしているという貧しい家だった。その女生徒はとても明るい人だったのだけど、その家庭の貧しい様子が見てとれて僕は胸が塞ぐのだった。僕は自分だけがプチブルのような生活を享受しているような罪悪感にその後ずっと苦しめられて、母親が買ってくれた新調の学生服を孤児院通いの同級生にあたえて自分は古い学生服のまま通すというような奇妙な行動を取るようになった。たった一人でもこの世に不幸な人がある限り自分だけが幸せを享受するのは間違っている、そんなことができる人間は人間の風上にも置けない、等ととんでもない理屈をこねあげて自分は貧乏の側に立とうと誓うのであった。ガザの難民キャンプで子供が低温症で何人も死んでいると聞けば、自分にストーブの使用を禁じてしまう悪癖がおさまらないのもこうした思春期の体験によるのだと思われる。

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母を慕いて

2025-01-19 18:53:56 | 貧乏について

油彩 26x36㎝ 2016

僕が男版シンデレラの境遇に甘んじたのはこんな秘密があったからだった。若い母親は良く台所でエプロンの前の布を目に押し当てて泣いていることがあった。鼻歌を歌いながら台所に立っていたこともあるが、悲しそうにしているときもあったのだ。それを僕は母親が死にゆく不治の病に冒されているからだと独り合点していたからだった。というのも何回も僕は母親が便所を使った後に鮮血の塊を残していたのを目撃していたからである。そのようなときには落し紙と一緒に大量の脱脂綿も置いてあったからだ。僕は母親が毎月血を流しながらそれを口にせず僕たち子どもへの愛にその身を捧げていることを想って、母親を助けたいという観念に強く囚われていたのである。だから幼い時から薪でご飯を炊くのをたすけ、七輪で魚をあぶったりする女仕事を進んで買って出ていたのである。その母親は今96歳で老人施設に入っているがすこぶる元気でよくしゃべる老婆になっているらしい。

 

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