貧者の一灯 ブログ

掲載しているお話は、当ブログには著作権はありません。
掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。

貧者の一灯・一考編

2022年10月29日 | 流れ雲のブログ

















※ 迷惑は助け合いにつながる

「死は痛々しいもの。その部分を隠して、
家で死ぬのを美化してはいけないよ」

私たちは鳥取市の「野の花診療所」院長、
徳永進医師(71)の言葉に、はっとさせられた。

徳永医師は訪問診療で、患者が自宅で
安らかな死を迎えられるよう、力を尽くしてきた。

その一方で、容体が急変したり家族の不安が
増したりして、病院に再入院する患者を何人も
見てきた。

在宅死の穏やかな側面だけ取り上げられる
ことには違和感を覚える。

「死に美を持ち込むのは、ほどほどに
してよって思うね」

死は痛々しいもの。どんなときにそう感じる
のだろう。私たちの問い掛けに、徳永医師が
柔らかな笑顔で答えてくれた。

「例えば、自宅から入院に切り替えるとか、
緩和ケア病棟に入るとか、患者はそのとき、
そのときで選択を迫られる。

医者とけんかすることもある。
そして死にたどり着く。つらいよね」

「死が近づくと呼吸の様子が変わるんだけど、
それだって本人は分かってて『あっ、このまま
死ぬんかー』と思うかもしれないしね」。
つぶやくように、言葉を続けた。

「家に帰ろうよ」。私たちは小野市で、
家族からそう言われ、自宅で最期を迎えた
人たちに出会った。

現実には、家で亡くなる人は少数だ。全国で
2017年に死亡した約134万人のうち、自宅で
息を引き取ったのは約17万7千人にすぎない。
4人に3人は病院のベッドで死を迎えている。

「家で死ぬことはできますよ。支える家族や
医師、ヘルパーの気合がいりますけどね」
と徳永医師。

「患者は自宅に戻るのを『迷惑かけたくない』
って自重してしまうんですよね。

でも、迷惑って大切な言葉なんですよ。
迷惑はみんなが助け合うことにつながる
わけですから」。そう言って、にこやかな
表情を浮かべた。

徳永医師が診療所を開いてから12月で
丸18年になる。

この間、自宅でみとった患者は
約650人に上る。…


※ 家での「みとり」今も自問 。

家での最期を見つめる連載取材班の元に、
手紙やメール、ファクスで読者の感想が
寄せられました。

家でみとった人、望みながらかなわ
なかった人…。

思いの一部を紹介します。  

神戸市垂水区の女性(63)の父親は
今年2月5日、老衰のため、88歳で
亡くなりました。

父親は1人暮らしをしていましたが、
2017年から在宅療養を始めました。  

1月に肺炎を患い、入院。2月4日に
退院し、その夜、女性は「ゆっくり休んでね」
と声を掛けました。

しかし翌朝、父親が目覚めることはありま
せんでした。

在宅療養では医師や看護師、ヘルパー
のサポートが得られ、女性は「皆様の
おかげで、父との1年11カ月の時を持つ
ことができた」と記しています。 … 

「それはそれは壮絶な毎日でした」と
振り返るのは、要介護5の認知症の
母親と要支援2の父親を介護した
兵庫県加古川市の女性(69)です。

2年前に94歳の母親を自宅でみとり、
その半年後、97歳の父親が病院で
息を引き取りました。 

大変な日々ではありましたが、女性は
「認知症の母が最期の時にくれた感謝
の言葉、行動、今でも忘れることは
ありません。

子どもにも、孫にも、死について感じて
もらえた」と書いています。 … 

稲美町の女性(78)は「家でのみとりは
良かったのか、今でも自問自答しています」
と記しました。

くも膜下出血で入院した夫に、腎盂(じんう)
がんが見つかりました。余命4カ月と伝えられ
たそうです。  

家では「病院では見せなかった笑顔が
救いでした」としつつ、

「夫は3回も自分でチューブを抜き、
病院でされていた拘束を、家でもしなく
てはならなくなりました。とてもつらい
思いでした。

栄養剤を入れる時に苦しいのもかわい
そうでした」とつづられていました。  …

90歳の母親が末期の胃がんで入院中
という三木市の女性(60)の手紙には、
在宅療養の難しさが書いてありました。

「主人は仕事に忙しく、子ども、孫は関東
にいて、助けてくれる人はいない。
私も腰が悪く、私一人では無理かと思う」。

それでもなんとか退院できる方法がないか、
模索しているそうです。  …

播磨町の女性(75)は10年に、がんで
旅立った夫のことを寄せてくれました。

「家に帰りたい」という希望を聞き、
主治医や看護師と調べたものの、
24時間態勢で対応してもらえる往診医が
見つからなかったそうです。  

「1週間でも、家で自分の布団で、子どもや
孫に囲まれ、過ごさせてあげたかった」と女性。

「受け入れ態勢が整わないと、家に帰ること
は難しい。

地域によって、ずいぶんと医療の
環境が違う。

どこに住んでも、望んだ生き方、死に方が
できる社会であれば」と求めています。 …












塾は楽しいんだけど…

学校は嫌いだけれど、塾は好き、という
子供は多い。

学校の先生はなんとなく胡散臭いし、うるさいし、
何かというと小言も言う。それに比べれば、
塾の先生は好きだ。  

塾の先生は若い、面白い、そしてうるさい
ことは言わない、そして勉強ができる。

成績が上がれば良いし、上がらなければ
塾に行っても仕方がない。

お母さんに聞いたら、「塾の先生の方が
勉強されているから」と言っていた。  

「教育」というものはどういうものか、何を教え
なければならないのかも教育基本法で
決めてある。

別に教育基本法で決めた通りに教育をしな
ければならないということはないが、「学校」
という正式な名前が付いているところは、
名前と内容が一致していなければ不便だから、
社会に対して「学校の教育とはこういう事です」
と宣言する。それが教育基本法である。  

教育基本法にはその第一条に、 「真理と正義
を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を
重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な
国民」 を育てるように教育をすると宣言している。  

だから先生は、真理と正義を教え、個人の価値
を教え、勤労と責任を重んじるように言い、
自主的精神を持った生徒を作ろうとする。

学校がうっとうしいのは判る。自分の中にある
野獣の心を先生は攻撃してくる。君は正義を
守ろうとしないじゃないか?

君は友達を尊重したか?とやられるのだから、
イヤになる。幼い児童にとって学校がうっとうしい
のは当たり前で、教育には少し強制力がいる
のである。

「エミール」を著したルソー、

子供の権利を最初に認めたルソー、教育を
子供の立場で考えたルソーだが、それでも
子供の心の特徴を次のように述べている。  

「最初はあのお菓子が欲しいと言う。
それを与えると、次にはショーウィンドウにある
おもちゃを欲しがる。それも与えると、最後には
夜空の星を取ってくれと言う。

それはダメだというとその子供は泣き叫び、
承知しない。」  

我慢の心、他人を尊重して自分が譲る心の
ようなものは、人間には最初から与えられて
いない。

野性的な生活をしている場合には、年上の子供
から殴られ、自然の中に迷って恐ろしい思いをし、
そんな経験を積みながら「自分の限界を知り、
他人を尊重する」という心が出来てくるが、

現代の教育ではそれを人為的にやる。  
年上のやんちゃ坊主からしこたま殴られる
代わりに、何とかしてそれを体験させるの
だから大変だ。

本来は、悪いことをすれば殴るのが正しい
教育で、それが「人間に優しい」。

そうすれば登校拒否やノイローゼは無く
なるが、現代では殴れないので、じっくり
と説明する。それは人間にとって辛いこと
である。  

いずれにしても、小学校、中学校、高等学校
と合計、12年も「真理と正義を愛し、個人の価値
をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神
に充ちた心身ともに健康な国民」になる教育を
受けて、大学に入る。

大学は、学問的にも人格的にも優れた教授陣と、
12年間勉強し厳しい試験を受けてきた学生で
構成される。

事務の人や管理の人にも手伝って貰っているが、
その人たちも教授と学生の活動に協力してくれる。  

かくして、大学は学問と教育の最高学府として
尊敬を集め、学内は整然として乱れが無く、
さすがは「真理と正義を愛し、個人の価値を
たつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に
充ちた心身ともに健康な人々」がいるところ
だなと感心することになるはずである。  

でも、大学は違う。事実は違うのだ。

私が大学に来て第一に驚いたのは交通規制
が多いことだった。広い構内だからある程度の
交通の整理は必要ではあるが、

名古屋の街中より看板も道路の注意書きも、
果ては写真のように路面に注意書きをした
上で徹底的にガードしている。  

私はこのキャンパスを見て、やや教育の
意欲を失った。

一体、12年間、教育基本法の下で教育を受け、
さらに大学で物理学や法学など難しい学問を
学び、及第点を取るような学生やそれを教える
先生が、「どこに駐車したら迷惑になるか」が
判らないのだろうか?  

大学なら、せめて小さく「ここに駐車するのは
ご遠慮ください」と書いておけば良いはずである。

もしそれに反して駐車をする人がいたら、
退学・退職だろう。

看板を立てたぐらいでは言うことを聞かず、
路面に書いてもダメ、ついに物理的に防御
をしなければ駐車してはいけないところに
駐車するようでは、「真理と正義を愛し、
個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、
自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」
というのは完全に空文になる。  

大学構内に交通規制の看板や衝立がある
ことは、小さいことのように見えて、大学教育
の根源に拘わる事なのである。