現象学という哲学がある。いまだ私には理解できない哲学なので、現象学という哲学があるらしいというのが正しい表現だ。デカルトはひとの意識を感性的な実在と理性的な実在に分かち、感性と理性との二元論を前提にして理性的な思惟を感性から分かち科学を科学たらしめる思惟の先駆けとなった。フッサールはこのデカルト的省察を批判的に摂取して新たな純粋論理学を打ち立てようと目論んだ。純粋論理学の再構築を目論んだ哲学が現象学だ。まるで高校生の作文のような表現ではあるが、私の理解が及ぶ範囲内で現象学を説明しようとすればそういうことになる。
読書を進めている著名な現象学のメルロ・ポンティが著した「知覚の現象学」は、物質と意識・精神・知識との関わりを現象学的に明らかにしようとする。ここで問題になるのは、例えば、ひとはなぜ猫を猫として認識できるのか、またなぜ醜い猫、可愛い猫を認識できるのかというプラトン以来のイデアの問題だ。プラトンは万人の心の中にはあるものをそのものであると認識できるイデアがある。そのイデアは原始的なイデアから、芸術品に至る洗練されたイデアへまで多様である。さらにイデアは時間や時代とともにと姿を変えながら展開することがあると説く。が、プラトンは進展させる要因について応えていないといわれる。・・・いわれると書かざるを得ないのは、おそらくはプラトンのイデア論に対する私の理解が足りないからだ。
「知覚の現象学」のなかでメルロ・ポンティは知覚が物質を認識しようとすると「指向性」の働きによってひとに共通の認識が生じる。例えば、ひとは右目と左目との両目で景色を見る。ところが神経の働きによって映像はひとつの心象になる。二つの眼が別の情景を見ているにもかかわらず、だ。たとえば、指向性というのはこういう作用をいう。さまざまな戦闘を見た兵士が戦争が悲惨なものだというひとつの心象を得る。こういうのも指向性の作用だ。イデア論にしても指向性にしても、日本語がいまひとつしっくりとこない。知ることと合点がいくことは違うと熊沢蕃山は言った。現象学がいまだに消化不良なのは合点がいかないからだ。
読書を進めている著名な現象学のメルロ・ポンティが著した「知覚の現象学」は、物質と意識・精神・知識との関わりを現象学的に明らかにしようとする。ここで問題になるのは、例えば、ひとはなぜ猫を猫として認識できるのか、またなぜ醜い猫、可愛い猫を認識できるのかというプラトン以来のイデアの問題だ。プラトンは万人の心の中にはあるものをそのものであると認識できるイデアがある。そのイデアは原始的なイデアから、芸術品に至る洗練されたイデアへまで多様である。さらにイデアは時間や時代とともにと姿を変えながら展開することがあると説く。が、プラトンは進展させる要因について応えていないといわれる。・・・いわれると書かざるを得ないのは、おそらくはプラトンのイデア論に対する私の理解が足りないからだ。
「知覚の現象学」のなかでメルロ・ポンティは知覚が物質を認識しようとすると「指向性」の働きによってひとに共通の認識が生じる。例えば、ひとは右目と左目との両目で景色を見る。ところが神経の働きによって映像はひとつの心象になる。二つの眼が別の情景を見ているにもかかわらず、だ。たとえば、指向性というのはこういう作用をいう。さまざまな戦闘を見た兵士が戦争が悲惨なものだというひとつの心象を得る。こういうのも指向性の作用だ。イデア論にしても指向性にしても、日本語がいまひとつしっくりとこない。知ることと合点がいくことは違うと熊沢蕃山は言った。現象学がいまだに消化不良なのは合点がいかないからだ。