旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

仕事

2010年04月07日 22時13分16秒 | Weblog
「忙中閑あり」は安岡正篤さんの造語だそうだ。もともと影の参謀とか策士とか、虎の威を借りる狐よろしく先哲解釈の権威で処世をする人間が好きではないから、この表現を控えようと思いつつ、これまでの癖で使ってしまう。要は、口の割には私に節操というものが欠落していることの証左なのだ。

たまに来所する求職者が驚くくらい、連日ハローワークは混み合っている。確かに、年度替りという要因で3月に離職するひとが多い。当然といえば当然なのだが、8時半の受け付け開始からハローワークは人の海、ひとの波が押し寄せる。押し黙ったまま呼び出しを待っている皆さんに慰労の意味をこめて「どうもお持たせしました。」という挨拶から職業紹介や訓練相談の手続に入ることにしている。

空調のせいなのか、ひとの海のせいなのか、早春だというのにハローワークは蒸し暑い。数10分もすると全身から汗がにじんでくる。顔面は、目に汗がはいらんばかりの惨状だ。それでも、来所者の皆さんの姿はちょうど1年ほど前のわたしの姿なのだから、どうしても相談に熱が入る。熱意が熱となって全身を駆け巡っているような錯覚を覚えることもある。

たまに「シンドラーのリスト」のような使命感に駆られて、紹介状を書いたり訓練の申込を受け付けている自分の姿を連想する。しかし、事業所へ紹介状を出したからといって就職が決まるわけでもないし、訓練の申し込みを受け付けたからといって訓練の選考にうかるわけではない。こういう連想をすること自体、すでに仕事がマンネリ化し始めたか、疲れ始めているかの兆候であるように思えれてならない。

ヴィトゲンシュタイン

2010年04月07日 21時14分27秒 | Weblog
広島駅構内の古本屋で時間をつぶしていると、藤本隆志著「ヴィトゲンシュタイン」が目に止まった。芸備線の列車を待つ合間のことだから、さっそく買い求めて車中で読んでみた。ヴィトゲンシュタインは現象学から生まれ育った分析哲学の系統だ。ブレンターノ、フッサールからメルロ・ポンティ、そしてヴィトゲンシュタイン、目に留まる書物の性質が連鎖するのが興味深い。本が私を求めているのか、その逆なのか私には解らない。

以前、彼の全集の内の一巻を読んだことがある。難解極まりないというよりも、好きになれない文体だ。他人に解り易く表現しよう、説明しようという姿勢が微塵もない。正統的な哲学の教育を受けていない身からすると、この種の著作を読むことが実に味気ない。もしも読むことを強要されたら神経が萎えてしまいそうだ。

このようなヴィトゲンシュタインがバーランド・ラッセル卿の弟子だというのも何か不可解だ。ラッセルは平易な表現で深遠なことを書く。読む側からすると実に解り易い。哲学する者はいづれ言語の問題に突き当たる。ヴィトゲンシュタインの言語論については読んでおきたいと思う。ヴィトゲンシュタインといいメルロ・ポンティといい、とんでもない迷路に踏み込んでしまったような気がする。

つい固有名詞が先行してかれらの思想や哲学をうまく表現できないのは、著作を理解できていないことが原因のように思う。もとより、概説書を読んだり著名なフレーズを暗記して哲人や思想家を理解したような気になる気は毛頭もない。蕃山が言うように、知ることと合点がいくことは別問題である。解ることは解る、解らないことは解らないと言えることが哲学することの第一歩なのだ。