むかわの阿呆演劇日誌

演劇についての劇日誌やつれづれの演劇、映画の感想や日々のつぶやき。写真もあげます。

劇日誌「からだをおきざりにしているのは誰?」

2008年01月27日 22時58分10秒 | Weblog
劇日誌 劇団どくんご「ただちに犬」
2007年12月9日(土)PM7:00~9:00 松本、信濃むつみ高等学校特設テント

  少し緊張する。それは彼らの芝居はなにか当たり前に人生の棒ふり力を感じるからである。
それはもちろん未知座小劇場(http://www.office-z.co.jp/03_mitiza/)ももっと言葉としてやりとりされ、
 力場として未知 な所へ提出していく。

 今回のどくんこは、背景はなんとなく前回の旅日記でわかるような気がしたし、
10年まえ京都で芝居をしていたAくんにもあえたのも,
 これはあのときしゃべっていたこととシンクロ(思い出した)のも何かの因果もしくは無意識の磁場にひかれ
 シンクロ二シティーなのか。

  
 『シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは、事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された独:Synchronizitätという概念の英訳である。日本語訳では共時性(きょうじせい)とも言う。

何か二つの事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような二つの事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見做す。

ユングは、理論物理学者ヴォルフガンク・パウリと後に1932年から1958年までパウリ=ユング書簡と呼ばれるパウリの夢とそれに対するユングの解釈におけるシンクロニシティの議論をし、それをまとめて共著とした"Atom and Archetype:The Pauli/jung Letters, 1932 - 1958"(『原子と元型』)を出版している。

目次 [非表示]
1 一般的概念
2 批評


[編集] 一般的概念
ユングは、全てではないにせよ、いくつかの偶然の一致(coincidences)は単なる偶然ではなく、文字通りの「同時発生(co-inciding)」か、あるいは普遍的な事象を作り出す力の連続性によるものであると信じたのである。これらの力により、直観的な意識と行動が調和する過程を、ユングは「個体化」と名付けた。集合的無意識による、個体化された人間の意識のコミュニケーションを通じて、現実の出来事が形成されるというのが、ユングの主張であった。

ユングの説明によれば、シンクロニシティとは「非因果的連関の原理」、言い換えれば因果関係の外部、あるいは因果関係に付随して働く連絡の形式である。

ユングのシンクロニシティの最も有名な例は、プラム・プディングに関わるものである。ユングの語るところによれば、Deschamps という人物が、隣家の de Fortgibu からプラム・プディングをご馳走してもらったことがあった。その十年後、Deschamps はパリのレストランでメニューからプラム・プディングを注文したが、給仕は他の客に最後のプディングが出されてしまった後だと答えた。その客とは de Fortgibu であった。更に数年後、 Deschamps はある集会で、再びプラム・プディングを注文した。Deschamps は昔の出来事を思い出し、これで de Fortgibu さえいなければ大丈夫だと友人に話していた。まさにその瞬間、年老いた de Fortgibu が、間違ってその部屋に入ってきたのである。


[編集] 批評
シンクロニシティの理論は科学的方法による検証が不可能であり、概ね科学よりも疑似科学であると見做されている。確率論は、何の普遍的な連続性の力の介入なしに、普通の世界でプラム・プディングのような出来事の説明を試みることができる。しかしながら、その蓋然性を実際に計算するのに必要となる正確な変数を発見することはできない。これは、特定の個人的体験を記述するのにシンクロニシティが良いモデルでないという事ではない――が、シンクロニシティが「厳然たる事実」、すなわち我々の世界に現存する原理であると考えることを、拒否される理由ではある。

シンクロニシティは呪術的思考に陥っていると、主張する者もいる。

科学的手法が適用できるのは、(1)再現可能であり、(2)観測者から独立しており、(3)定量化できる現象のみに限られるが、シンクロニシティが科学的に「証明可能」でないとする議論の大部分は、レッド・ヘリング(訳注:「注意をそらせるおとり」の意味)である。

当然ながら、観測者独自の経歴がシンクロニシティによる出来事に意味を与える以上、シンクロニシティによる出来事は、観測者から独立していない。シンクロニシティによる出来事に関する独特な前歴がなければ、その出来事は誰にとっても、他の無意味で「ランダム」な出来事のようにしか見えない。シンクロニシティの原理は、自然界の出来事の連続性が持つ意味への疑問そのものを呼び起こす。

古典的な感覚では科学的に立証不可能ではあるが、ユングの表現する「非因果的連関の原理」の、より科学的な用語である「相関性」においては、シンクロニシティ現象の科学的な根拠は、発見されるかもしれない。

「相関性は因果関係を意味しない」は、よく知られた科学の原則である。しかし、相関性は古典的な因果関係によらず、現象間に共有される物理的性質かもしれない。遠く離れた出来事が、直接に物理的な因果関係で結ばれることなく相関性を持ち得るのは、量子力学の相関関係において明確に表されている(非局所性を参照せよ)。

ユング自身、この説を提唱する際、占星術の誕生宮と結婚のパートナー選択の対応を検分し、共時性原理を見出そうとしたが、調査対象が占星術を真剣に信奉している者たちであり、任意の標本ではなかった。ゆえに統計学的な基礎条件を備えていなかった。』


  個人が世界とうつきあうのか。
  個人が世界にあわせることだけではない。


 そのこころのこだわりをまたここでみた気がしたのである。
 ただ、いまわたしやわたしたちはそれをどう見つめて、活動しているのかといえば極めていきあたりばったりである。
  というより、より演劇ではないところに芝居をかんがえているのかもしれない。

 そのうえで、今回のどくんご登場人物たちはなにものなのだろうか。めいぐるみのおぞましい目をしたやつ(こいつをいぬぐるみにしておこう。)このいぬぐるみを4人に得たいのしれないやつらにさしだされる。捨てられるように。
 話というか、くりひろげられるドラマは犬形のイヌがだれが殺したのか、という謎解きサスペンスにはじまってしだいに、同じことをいう登場人物をくりかえす。それがはじめは他者にむけているのにいつのまにか個々のドラマへと語りが重きを置かれていき、いつのまにか、はじめからそうであるのだが、思い込みと誤解の積み重ねの掛け合いがみえてくるのだ。でも、もはや意味なくしても、かけあいなかで、繰り返しをみせられたものはかってにこういことをいっているのだなと思ってしまう。つまり、共同幻想は情報として観客が思い込めるようになっているのだ。

コメント
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