おとうちゃんは昔、おかあちゃんのことを、「ヤリクリは上手い!! でも料理は決して上手じゃない」って「断言」したことがある。(おかあちゃんはちょっと傷ついた顔してた)「僕の育った家の料理は、義姉さんの方に全部行っちゃったなあ」とも。
おとうちゃんは別の時に、「新婚旅行から帰った翌朝、真面目な顔で『ご飯ってどうやって炊くんですか?』。僕もよくはわからなかったけど、まあこのくらいの米なら水はこれくらい・・・とかやってみて、なんとか一応ご飯になった(笑)」。おかあちゃんはあっさり「だって炊いたことなかったもの」。
おとうちゃんのお母さんは、ほんとに料理の好きな人だったらしい。外に食事に行くと、作り方を料理人さんに必ず聞いて、時には厨房まで押しかけて見せてもらったりしたとか。(「僕らは早く帰りたいんだけど、おふくろが動かないもんでどーにもならんかった」) お菓子を作るのも上手で、「うぐいす餅とかシュークリームとか、作るときは何十個も作ってた。兄貴たちと競争で食べたなあ。一日でなくなったよ」。(だからおとうちゃんはシュークリームが好きだったんだと納得) おかあちゃんは山里に生まれ育って「何でも砂糖と醤油で煮るだけ」の「田舎料理」しか知らないって、おとうちゃんは(めったに文句を言わなかっただけで)実はず~っと不満だったんだ・・・って、亡くなった後になって気づいた。
それでもアタシは、おかあちゃんの料理は美味しいと思ってた。小さい頃に「仕出し」でお刺身や焼き魚を食べさせられてた頃よりずっと、おかあちゃんの「ヤリクリ」料理はアタシの口に合ってた。(好き嫌いが絶対ユルサレナイのだけは、相変わらず迷惑だったけど)
というわけで、おかあちゃんの料理の話。
カニのカナッペ・・・おとうちゃんのお母さんから教わったんだって。他で食べたことがない、うちの名物料理の一つ。(生のカニがいいんだけど、カニ缶でも出来る) 茹でたカニの身をほぐして、丁寧に骨を取り除いて、薄切りたまねぎを炒めて作ったホワイトソースに混ぜる。サンドイッチ用の食パンを四等分したのにマーガリンを塗って、一枚ずつにカニ入りソースを載せ、粉チーズとバターのかけらも載せてオーブンで焼く。食べ出すと止まらないような美味しさで、家族みんなが好きだった。
クリーム・シチュー(カレーもほぼ同じ)・・・フライパンにバターを多めに溶かし、小麦粉を振り入れ、焦げないように弱火で炒める。それから、ダマが出来ないように少しずつ牛乳でのばす。最後に鍋に作った野菜スープ(シチュー本体)の汁も少し足して、ホワイトソースになったら鍋の方に移して、さらに弱火で煮る。(当時は既製品のルウが無かったから、これがごく普通の作り方だったんだと思う。アタシは何でも、テキパキは出来ないけどノンビリならいくらでも?出来たから、ホワイトソースを作るのはいつの間にかアタシの役目になった)
ごく薄味おでん・・・おとうちゃんが、おかあちゃんの作った「茶色い」おでんを食べて、「これはおでんじゃない」。「それなら食べに連れていきなさい。食べたことないもの、作れない」というので、ある晩みんなでおでん屋さんに。初めて食べた「おでん屋さんの」おでんは、ほとんど色がついてないくらいで、ほんと~~に美味しかった! おかあちゃんの作るおでんはガラッと変わって、その後は「おでん屋さんで食べたの」風に。うちの冬の名物料理になった。
金沢に移り住んで最初の数年間は、本当に切り詰めた生活で、食生活もギリギリな感じだった(詐欺に遭って借金が出来たなんて、子どもは知らなかった)。スイカの皮(当時は「白い部分」が結構厚かった)も、お味噌汁の具や漬け物になって食卓に出た。遊び心もあったのだろうけど、子どもたちに「食べてみたい」って言われたとき、おかあちゃんは内心喜んだかもしれない。
テキトーギョーザ・・・既成の皮を使って、「どんな風に包んでもいいから」とよく手伝わされた。豚の挽き肉が少しとみじん切り玉ねぎ、あとはありあわせの野菜で。春菊が入ってたときには驚いたけど、水ギョーザにすると、それも結構美味しかった。(おばあちゃんが香辛料をあんまり使わなかったように、おかあちゃんもニンニクなどは使わなかった。そもそもニラやニンニクは、ニオイが大っきらいだったと思う。おとうちゃんは使わせようと頑張ったけど、おかあちゃんは頑としていうことをきかなかった)
小イワシのあんかけ・・・お母ちゃんの創作料理かも。10センチもない小さいイワシを一皿買って、、お醤油味の唐揚げ(2度揚げする)にして、ありあわせの野菜の薄切りで作った薄味の「あん」をかける。スープ皿によそって、夕飯はそれとご飯で終わり。骨ごと食べられて、生臭みは全くない。「必要な栄養はこれ一皿でとれる」「洗い物も簡単」とかで、おかあちゃんは「一皿で済む料理」を追求してた気がする。(何事によらず「早く片付けてしまいたい」ヒトだった)
セルフサンド・・・朝食でときどき見かけたオソロシク簡単なメニュー。8枚切りの食パンのトーストに牛乳1杯。各自のパン皿には、斜め切りのきゅうりが数切れ&薄っぺらなハムが1枚。それを「自分で挟んで」食べるだけ。(和食のときは、ご飯に味噌汁(具は1種類)&何か卵料理・・・が定番。こっちの方がずっと手間がかかる)
おかあちゃんの料理の特徴を少し。
「自分の嫌いなモノは使わないし作らない」・・・たとえば、うちでは長い間サバはあんまり出なかった。おかあちゃん自身、元々は食べたことがなかったんだと思う。(おばあちゃんは「あんなオゾイ(貧しい・ショーモナイ・下品な)もん」って言ってたくらいで、当時「山里」まで「生」では来なかっただろうし、塩サバに「アタル」のも怖かったのかも)
「娘たちに手伝わせる」・・・カツやフライの衣つけ、ホワイトソース作り、卵焼きにオムレツ、ギョーザの皮包み。肉団子を丸めるとき、おせちを重箱に詰めるとき・・・などなど、「誰か手伝って」と、よく呼ばれた。おばあちゃんも、つまみ菜をより分けるときや味噌すり・ゴマすりのときは、幼い孫たちに手伝わせていたから、女の子を台所仕事に馴染ませるためのごく当たり前の習慣だったのかもしれない。とはいえ、おかあちゃんの方が、どこか遠慮がちに見えたのは不思議。「家事なんて、自分が担当する身になってしまえば、いつでも出来るようになる。料理もそう。だからアンタたちも、今は自分が必要なコトの方をしなさい」って、よく言ってた。(今思うと「料理なんか手伝わなくていいから、まずは勉強しなさい!」って言いたかったのかもしれないけど、娘には全然通じてなかった(^^;)
「丸ごとの魚は自分でおろす」・・・「ひとに頼むのは(相手がプロの魚屋さんでも)クヤシイから、練習して出来るようになった」のだとか。知り合いの漁師さんが、捕れたばかりのハマチやブリを毎年届けて下さったりしたから「必要に迫られた」のだと思う。出刃包丁を磨いでから作業を始めるときのおかあちゃんの顔は真剣だった。
ここまで来て、ふと気づいたことがある。
私たちも大人になってから一度だけ、各々大型のハマチをおろさせてもらったことがあった。(新鮮な魚の弾力のある硬さに驚き、なるほど包丁の切れ味次第だと解った一方で、相手は「食べ物」じゃなくて「生き物」なんだと実感。畏れ多い気持ちになったのを、今も覚えている)
結婚を控えた姉が「魚のおろし方教えて」と頼んだのがきっかけだったけれど、母は最初「何で私が」とでも言いたそうな顔で、「魚屋で買うときにおろしてもらえばいいじゃないの」と素っ気なかった。あの頃は気づかなかったけれど、そもそも母は「教える」こと自体、好きじゃなかったのかもしれない。
でも・・・単にそれだけのことでもなかった気もする。
何事によらず、身につけたいこと、解決しなければいけないことがあるなら、「親(年を取ってからなら子ども)を頼らず、自分で道を切り開いて前に進むべきだ」というのが、晩年に至るまで変わらなかった母の考え方だった。たかが「魚をおろす」程度のことでも、母は「親を頼ってくる」のを嫌ったのだ。
だから「誰か手伝って~」に駆けつけると、時にはちょっと遠慮がちな風情も見せたし、果ては「遺骨は故郷のお墓に」という頼みにも、「面倒なコト頼んで悪いわね」なんて言ったのだろう。高校を出ると同時に家を離れ、結婚する前も後も、自分や自分の家族のことを全く相談しようとしなかった私に、「○○ちゃん(姉の呼び名)はおとうちゃんそっくり。アンタの方が私に似てたわね」などと言ったのだろう・・・と。
「料理」のことを思い出したかっただけなのに、「人」の話になってしまう。5年前に亡くなった母も、ほとんど行き来の無くなった姉も、私にとってはまだまだ生々しい存在で、文字にするのは無理なのだろうか。
(記事の最後の20行ほどは、無い方がいいとわかっているけれど、「覚え書き」なのでやっぱり消さずにおきたい。ゴメンナサイ)
おとうちゃんは別の時に、「新婚旅行から帰った翌朝、真面目な顔で『ご飯ってどうやって炊くんですか?』。僕もよくはわからなかったけど、まあこのくらいの米なら水はこれくらい・・・とかやってみて、なんとか一応ご飯になった(笑)」。おかあちゃんはあっさり「だって炊いたことなかったもの」。
おとうちゃんのお母さんは、ほんとに料理の好きな人だったらしい。外に食事に行くと、作り方を料理人さんに必ず聞いて、時には厨房まで押しかけて見せてもらったりしたとか。(「僕らは早く帰りたいんだけど、おふくろが動かないもんでどーにもならんかった」) お菓子を作るのも上手で、「うぐいす餅とかシュークリームとか、作るときは何十個も作ってた。兄貴たちと競争で食べたなあ。一日でなくなったよ」。(だからおとうちゃんはシュークリームが好きだったんだと納得) おかあちゃんは山里に生まれ育って「何でも砂糖と醤油で煮るだけ」の「田舎料理」しか知らないって、おとうちゃんは(めったに文句を言わなかっただけで)実はず~っと不満だったんだ・・・って、亡くなった後になって気づいた。
それでもアタシは、おかあちゃんの料理は美味しいと思ってた。小さい頃に「仕出し」でお刺身や焼き魚を食べさせられてた頃よりずっと、おかあちゃんの「ヤリクリ」料理はアタシの口に合ってた。(好き嫌いが絶対ユルサレナイのだけは、相変わらず迷惑だったけど)
というわけで、おかあちゃんの料理の話。
カニのカナッペ・・・おとうちゃんのお母さんから教わったんだって。他で食べたことがない、うちの名物料理の一つ。(生のカニがいいんだけど、カニ缶でも出来る) 茹でたカニの身をほぐして、丁寧に骨を取り除いて、薄切りたまねぎを炒めて作ったホワイトソースに混ぜる。サンドイッチ用の食パンを四等分したのにマーガリンを塗って、一枚ずつにカニ入りソースを載せ、粉チーズとバターのかけらも載せてオーブンで焼く。食べ出すと止まらないような美味しさで、家族みんなが好きだった。
クリーム・シチュー(カレーもほぼ同じ)・・・フライパンにバターを多めに溶かし、小麦粉を振り入れ、焦げないように弱火で炒める。それから、ダマが出来ないように少しずつ牛乳でのばす。最後に鍋に作った野菜スープ(シチュー本体)の汁も少し足して、ホワイトソースになったら鍋の方に移して、さらに弱火で煮る。(当時は既製品のルウが無かったから、これがごく普通の作り方だったんだと思う。アタシは何でも、テキパキは出来ないけどノンビリならいくらでも?出来たから、ホワイトソースを作るのはいつの間にかアタシの役目になった)
ごく薄味おでん・・・おとうちゃんが、おかあちゃんの作った「茶色い」おでんを食べて、「これはおでんじゃない」。「それなら食べに連れていきなさい。食べたことないもの、作れない」というので、ある晩みんなでおでん屋さんに。初めて食べた「おでん屋さんの」おでんは、ほとんど色がついてないくらいで、ほんと~~に美味しかった! おかあちゃんの作るおでんはガラッと変わって、その後は「おでん屋さんで食べたの」風に。うちの冬の名物料理になった。
金沢に移り住んで最初の数年間は、本当に切り詰めた生活で、食生活もギリギリな感じだった(詐欺に遭って借金が出来たなんて、子どもは知らなかった)。スイカの皮(当時は「白い部分」が結構厚かった)も、お味噌汁の具や漬け物になって食卓に出た。遊び心もあったのだろうけど、子どもたちに「食べてみたい」って言われたとき、おかあちゃんは内心喜んだかもしれない。
テキトーギョーザ・・・既成の皮を使って、「どんな風に包んでもいいから」とよく手伝わされた。豚の挽き肉が少しとみじん切り玉ねぎ、あとはありあわせの野菜で。春菊が入ってたときには驚いたけど、水ギョーザにすると、それも結構美味しかった。(おばあちゃんが香辛料をあんまり使わなかったように、おかあちゃんもニンニクなどは使わなかった。そもそもニラやニンニクは、ニオイが大っきらいだったと思う。おとうちゃんは使わせようと頑張ったけど、おかあちゃんは頑としていうことをきかなかった)
小イワシのあんかけ・・・お母ちゃんの創作料理かも。10センチもない小さいイワシを一皿買って、、お醤油味の唐揚げ(2度揚げする)にして、ありあわせの野菜の薄切りで作った薄味の「あん」をかける。スープ皿によそって、夕飯はそれとご飯で終わり。骨ごと食べられて、生臭みは全くない。「必要な栄養はこれ一皿でとれる」「洗い物も簡単」とかで、おかあちゃんは「一皿で済む料理」を追求してた気がする。(何事によらず「早く片付けてしまいたい」ヒトだった)
セルフサンド・・・朝食でときどき見かけたオソロシク簡単なメニュー。8枚切りの食パンのトーストに牛乳1杯。各自のパン皿には、斜め切りのきゅうりが数切れ&薄っぺらなハムが1枚。それを「自分で挟んで」食べるだけ。(和食のときは、ご飯に味噌汁(具は1種類)&何か卵料理・・・が定番。こっちの方がずっと手間がかかる)
おかあちゃんの料理の特徴を少し。
「自分の嫌いなモノは使わないし作らない」・・・たとえば、うちでは長い間サバはあんまり出なかった。おかあちゃん自身、元々は食べたことがなかったんだと思う。(おばあちゃんは「あんなオゾイ(貧しい・ショーモナイ・下品な)もん」って言ってたくらいで、当時「山里」まで「生」では来なかっただろうし、塩サバに「アタル」のも怖かったのかも)
「娘たちに手伝わせる」・・・カツやフライの衣つけ、ホワイトソース作り、卵焼きにオムレツ、ギョーザの皮包み。肉団子を丸めるとき、おせちを重箱に詰めるとき・・・などなど、「誰か手伝って」と、よく呼ばれた。おばあちゃんも、つまみ菜をより分けるときや味噌すり・ゴマすりのときは、幼い孫たちに手伝わせていたから、女の子を台所仕事に馴染ませるためのごく当たり前の習慣だったのかもしれない。とはいえ、おかあちゃんの方が、どこか遠慮がちに見えたのは不思議。「家事なんて、自分が担当する身になってしまえば、いつでも出来るようになる。料理もそう。だからアンタたちも、今は自分が必要なコトの方をしなさい」って、よく言ってた。(今思うと「料理なんか手伝わなくていいから、まずは勉強しなさい!」って言いたかったのかもしれないけど、娘には全然通じてなかった(^^;)
「丸ごとの魚は自分でおろす」・・・「ひとに頼むのは(相手がプロの魚屋さんでも)クヤシイから、練習して出来るようになった」のだとか。知り合いの漁師さんが、捕れたばかりのハマチやブリを毎年届けて下さったりしたから「必要に迫られた」のだと思う。出刃包丁を磨いでから作業を始めるときのおかあちゃんの顔は真剣だった。
ここまで来て、ふと気づいたことがある。
私たちも大人になってから一度だけ、各々大型のハマチをおろさせてもらったことがあった。(新鮮な魚の弾力のある硬さに驚き、なるほど包丁の切れ味次第だと解った一方で、相手は「食べ物」じゃなくて「生き物」なんだと実感。畏れ多い気持ちになったのを、今も覚えている)
結婚を控えた姉が「魚のおろし方教えて」と頼んだのがきっかけだったけれど、母は最初「何で私が」とでも言いたそうな顔で、「魚屋で買うときにおろしてもらえばいいじゃないの」と素っ気なかった。あの頃は気づかなかったけれど、そもそも母は「教える」こと自体、好きじゃなかったのかもしれない。
でも・・・単にそれだけのことでもなかった気もする。
何事によらず、身につけたいこと、解決しなければいけないことがあるなら、「親(年を取ってからなら子ども)を頼らず、自分で道を切り開いて前に進むべきだ」というのが、晩年に至るまで変わらなかった母の考え方だった。たかが「魚をおろす」程度のことでも、母は「親を頼ってくる」のを嫌ったのだ。
だから「誰か手伝って~」に駆けつけると、時にはちょっと遠慮がちな風情も見せたし、果ては「遺骨は故郷のお墓に」という頼みにも、「面倒なコト頼んで悪いわね」なんて言ったのだろう。高校を出ると同時に家を離れ、結婚する前も後も、自分や自分の家族のことを全く相談しようとしなかった私に、「○○ちゃん(姉の呼び名)はおとうちゃんそっくり。アンタの方が私に似てたわね」などと言ったのだろう・・・と。
「料理」のことを思い出したかっただけなのに、「人」の話になってしまう。5年前に亡くなった母も、ほとんど行き来の無くなった姉も、私にとってはまだまだ生々しい存在で、文字にするのは無理なのだろうか。
(記事の最後の20行ほどは、無い方がいいとわかっているけれど、「覚え書き」なのでやっぱり消さずにおきたい。ゴメンナサイ)
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