水戸光圀が「大日本史」の編纂作業に着手したのは1657年、30歳、まだ水戸家の当主ではない時だった。光圀の父であり、家康の十一男であった徳川頼房がまだ健在の時だ。若君に過ぎない光圀が、当主である父の意向を無視して、そんな大事業を簡単に開始できるものではない。この「大日本史」の完成は明治も終わりに近い1906年(明治39年)だ。これは水戸藩の事業として行われていた江戸時代、大変な費用がかかり、そのため領民に重税を強いたといわれる。「国の歴史の編纂」という事業は、本来幕府がやるべきことで、徳川御三家とはいえ、水戸藩35万石の大名にとっては大変な事業だ。これには家康の密命があったといわれている。「大日本史」は後に、勤皇思想「水戸学」の源流となった。「水戸学」は、敢えていえば「絶対の忠誠の対象を天皇とし、日本人の考え方になじむように改変された朱子学」ともいえる。中国の朱子学の考え方を貫けば、天皇は絶対的忠誠の対象にはならない。水戸学はそれを改造したといえよう。 . . . 本文を読む