民主主義政治とは、戦い続けて維持されてゆくものなのであろう。民主主義の原型ともいわれた古代ギリシャのアテネの時代、最も長く民主政体を維持したとされる指導者ペリクレスの時代のことを、歴史家のツキデイデスは、多数決で全てが決定する政体を維持しながらも、「形は民主政体だが、実際はただ一人が支配した時代」ともいっている。事実、ペリクレスの30年間は努力と苦労の連続だった。 . . . 本文を読む
池上彰、半藤一利の両氏による「令和を生きる」(平成の失敗を超えて)と題した興味深い両氏の対談が文庫本にあった。そこには、日本のバブル景気が最高潮に高まった年、平成元年の年末に日本では最高株価3万8915円を記録したことも書かれている。世界では、この平成元年(1989年)は、6月に中国で天安門事件が起き、その5か月後の11月にベルリンの壁が崩壊した年でもあった。すなわち日本では昭和64年(1989年)に昭和天皇の崩御があり、元号が平成に変わり、間もなくバブルもはじけて、日本は内向きになり、世界の動乱に目を凝らして考えるどころではなかったとも述べられている。
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「福翁自伝」をみると、福沢諭吉は必死に習得したオランダ語が世界に通用する言語ではなかったことに気が付き、思い直して英語の習得を始めている。万延元年(1860年)、諭吉に渡米のチャンスがやってきた。日米修好通商条約の調印のため幕府が使節を派遣することになり、使節を護衛して咸臨丸の総督として渡米する副使の木村摂津守喜毅に頼みこむ。木村家の家臣たちが、無事に帰ってこれるかどうか分からないような米国など行きたがらなかったからだ。そして、諭吉は英語を母国語とする自由で平等の国を実地に見聞することになる。当時の日本にあっては、ワシントンとナポレオンは日本人が最も好んだ英雄の名前だったが、興味を持とうとしないアメリカ人に諭吉は大きな衝撃を受けた。そしてアメリカという平等社会の本質を見抜き、いずれ日本もそんな国にならなくてはと強く感じたようだ。
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人類の歴史は戦争の歴史でもある。そして戦争は古代からずっと続いてきた。しかし、近年になって、戦争や植民地支配は国際的に違法とされる時代がやってきた。第一次世界大戦で約2600万人の犠牲者を出し、戦争を外交と並ぶ国家政策の一手段とみなしてきた考え方から、戦争を否定する方向へと向かう。つまり、第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約の一部として国際連盟規約が結ばれ、国際連盟が設立され、それは、全ての連盟加盟国がお互いに武力行使をしないと約束し、戦争を行う国に対しては、全ての加盟国が協力して制裁するという集団保障体制で戦争を抑止しようとするものであった。
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アインシュタインは、21歳の時(西暦1900年)に初めて科学論文を出し、1955年、76歳で死ぬまでに多数の論文を書いた。その中でも、「奇跡の年」1905年に発表した「特殊相対性理論」がある。特殊とは加速度が加わらない状態、つまり、速さと運動方向が一定した状態、物理学用語でいえば「慣性系」「等速直線運動」という特殊な状態でのみ成り立つからこそ特殊であった。しかし、地球という限られた範囲、つまり宇宙から見れば限られた世界であり特殊な状態となるが、アインシュタインは、そんな特殊な状態でのみ成り立つような理論には満足できていなかった。
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