murota 雑記ブログ

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( 歴史メモ ) 藤原氏の権勢の確立に迫る。

2016年09月22日 | 歴史メモ
 復習になるが、桓武天皇は和気清麻呂の進言を取り入れ、造営中であった長岡京をあきらめ、新たに都を造営する場所を山背国葛野郡宇太村(やましろのくにかどのぐんうだむら・現在の京都市)に決定、早速造営を開始させると同時に副都であった「難波宮(なにわのみや・現在の大阪市中央区)」を廃止(793年) 。794年には、造営中の新都を「平安京(へいあんきょう)」と名付け、長岡京から遷都された。ここから平安時代が幕を開け、江戸時代の末まで1000年間、日本の都として続くことになる。さて、桓武天皇(かんむてんのう)の死後に起こった平城天皇(へいぜいてんのう)と嵯峨天皇(さがてんのう)の抗争事件で、権勢を誇っていた「藤原式家」が没落し、「藤原北家」が台頭するきっかけとなったのが「薬子の変」である。784年、桓武天皇は平城京の仏教勢力から逃れるために都を長岡京に遷都するが、翌年の785年、長岡京造営の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は暗殺されてしまい、794年には桓武天皇は長岡京を放棄、平安京へと遷都。この桓武天皇の行動に対し、不満を募らせたのが、藤原種継の子・藤原仲成(ふじわらのなかなり)と藤原薬子(ふじわらのくすこ)の兄妹だった。 . . . 本文を読む

(歴史メモ) 聖武天皇、(道鏡の出現)、桓武天皇、その過程を振り返る。

2016年09月20日 | 歴史メモ
 話を藤原京の時代から始めると、当時の天皇(女帝)の持統天皇は一人息子の草壁皇子(くさかべのみこ)が早死にしてしまったため、草壁皇子の遺児である珂瑠皇子(かるのみこ)に皇位を譲ろうと考え、弱冠14歳の珂瑠皇子を文武天皇(もんむてんのう)として即位させる(697年)。この14歳の少年への譲位には反対者も多く、持統天皇が上皇となって文武天皇を補佐したが、持統天皇は702年に亡くなる。藤原不比等(ふじわらのふひと・藤原鎌足の息子)は自分の娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)を文武天皇の夫人にする (697年)、その後、文武天皇と藤原宮子との間に首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)」が生まれる(701年)。藤原氏はこの後、自分の娘を天皇の夫人とし天皇家と親戚関係を結んでゆくことになる。聖武天皇は奈良時代の中頃、深く仏教を信仰し全国に国分寺、国分尼寺を建立し、また奈良の大仏を完成させた天皇であり、天平文化の黄金時代を築いた天皇でもある。 . . . 本文を読む

菅原道真の真実に迫る。

2016年09月19日 | 歴史メモ
 10~11世紀にかけて行われた摂関政治(せっかんせいじ)や当時の藤原氏の権力の強さを語る上では見逃せない事件で、学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)が出世するきっかけになった事件がある。宇多天皇(うだてんのう)が、自分を天皇に推薦してくれた藤原基経(ふじわらもとつね)に感謝の意を表し「天皇に関する全ての事は太政大臣である藤原基経が関与する。これからは天皇が臣下に対して命令する際にも、臣下の要望を天皇に伝えるときも全て藤原基経に相談して決める」という詔(みことのり)を出され、正式に関白(かんぱく)と言う役職が誕生した。 . . . 本文を読む