「福翁自伝」をみると、福沢諭吉は必死に習得したオランダ語が世界に通用する言語ではなかったことに気が付き、思い直して英語の習得を始めている。万延元年(1860年)、諭吉に渡米のチャンスがやってきた。日米修好通商条約の調印のため幕府が使節を派遣することになり、使節を護衛して咸臨丸の総督として渡米する副使の木村摂津守喜毅に頼みこむ。木村家の家臣たちが、無事に帰ってこれるかどうか分からないような米国など行きたがらなかったからだ。そして、諭吉は英語を母国語とする自由で平等の国を実地に見聞することになる。当時の日本にあっては、ワシントンとナポレオンは日本人が最も好んだ英雄の名前だったが、興味を持とうとしないアメリカ人に諭吉は大きな衝撃を受けた。そしてアメリカという平等社会の本質を見抜き、いずれ日本もそんな国にならなくてはと強く感じたようだ。
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