今週、英語民間試験の2020年度実施の延期が発表された。テレビを見ていると、現在の高校2年生ばかりを映して影響が大きいと報道しているが、取り返しのつかない影響を受けているのは、高校3年生であることの報道は少ない。週刊文春がその点を記載していた。https://bunshun.jp/articles/amp/15186?page=1
少し補足すると、受験はある意味人生の選択であり、一定の枠に入れるかどうかで次のステップが変わってくる。数年(中学入学直後から)をかけて大学受験を準備してきた学生がいる中、そして推薦願入学の締め切り後に変更となってしまったことは、今年の受験生にとって、大きなミスリードをさせたことになる。ちなみに私の感想は、大臣はよく決断して今回の英語民間試験を止めたなということであり、責められるべきは文部省と考えている。
さて、課題に対しての打ち手がいかにおかしいのかということを少し説明したい。まずは実施についての批判報道から。
1.公平性の観点
今回の英語民間試験の導入が都市部及び金持ち有利というが、元に戻すことでここ数年は既存の有名進学校が有利になる。都市部の有名私立進学校には、特に都市部でも金銭的に余裕があり、教育に理解のある(投資対象としてリターンが高いと分かっている)人の子供たちが入学している。中高一貫教育では。早い段階から対策をしておりまた対応のノウハウもある。塾も大多数の母数を元に、都市部に体制が整っておりより綿密に対応が可能である。これらは地方や都市部の公立高校の事前対策とは比較にならず太刀打ちは出来ない。ゼロスタートは、過去の優位をリセットするので、本当は開始時点は縮小に繋がる。常識としての一例であるが、都市部の有名進学校の子供達は、小学校の時から塾・家庭教師・お稽古事などの教育費をかけており、その金額の直接的な支払額は一人毎年100万円以上となる。家庭の負担は毎年200万円以上であり、これが平均9年間は必要となる。現状の試験はその蓄積がそのまま使えるので、準備してきた負担と現場における混乱に対する怒りは別として、既存に戻したほうが進学校には有利となる。
2.課題設定
国際社会で英語は重要であり、その習得は今後より重要になるという点について、部分的に正しいが全国として求めるべきかどうか、言わんや大学入試の試験とするべきかどうか。言語の観点から言えば、まともな内容のある母国語を話せない人が、いくら英語を話せても意味はない。海外と仕事をする会社において、英語の話す力向上の施策としてスピーキングのテストを導入して昇格や駐在の要件としているが、TOEIC900台でも合格点に届かない社員が続出している。いい点取れるのは、帰国子女・配偶者が英語ネイティブ国出身・長期英語圏駐在かつ日本人中心で仕事が進まない環境にいたような人になってしまう。簡単に言えば、英語を過度に神聖視せず、大学受験として万人が受けるべきレベルを考えるべきである。必要な人が日本は英語を喋ればよく、その時に本人が努力をします。
3.小学生からの英語教育
まず多くの学校が崩壊します。均質な英語を話せる先生がいないから。外部の外国人に委託するにしても、質が担保されず、評価もできないから。この問題の対策をせずに導入したら現場は崩壊する。子供に本当に英語のスピーキングの力をつけさせるなら、日本人のいない環境に幼稚園から小学生2年生までの1年間、100%英語のみの環境に入れたら大半は話せるようになります。ただし話せるのは子供の英語です。大学受験まで維持するには、日本語の勉強とともに話す英語も合わせた教育環境を継続して与えることが出来ないと、忘れてしまいます。さらに大人の英語にするには、大人としての文章と知識や真剣な対話経験が必要になります。
4.国際社会での英語のランクが低いとしているが、日本は大多数が受験し、英語のできる上位層だけが受験している国と比較しても意味はない。受験者の母数間違えば、その目的も異なり、あくまで統計は統計でしかなく、都合よく統計を使った文科省の誘導は嘘と同じである。
大臣を含めて政府に考えてもらいたいのは、この国をどのような国にしたいのかであり、それを実現するためのプロセスである。それと同時に、そのプロセスはどこが行うべきかだ。日本語を捨てて、シンガポールみたいに英語を母国語にしてグローバル社会の中で生き残りをかける未来を志向するのか?そんな議論もビジョンもない中で、短期的な英語導入を進めても意味はない。私は英語が話せて使えるからこそ、大半の人にとっては英語はツールでしかないと言い切れるし、その視点から見ても、効果の無い壮大な無駄に時間と金をつぎ込む未来しか見えない。英語ができるようにするためには、短期集中して一定レベルまで習得させることとその維持環境の構築である。
大学入学の選抜試験なら、基本的な試験と後は大学別に任せたら良い。英語の話せる生徒を集めて卒業させる大学があっても良いし、そこが就職を含めて人気になれば追随するとこもでる。画一的に全ての大学の前提とすることは必要ない。
文科省で意思決定されている人は、自分のことを賢く仕事もできると思っているようであるが、目線が目の前の課題解決の視点しかなく、より大きな視点で見ることができていなかったり、予算消費のために壮大な無駄をわざわざ内部の論理だけで計画したり、開始したら間違いに気付いても出世のために突き進んだりしてしまう。許認可等の影響を維持するために、管轄業界に対して飴と鞭を使うためだったりするので、有識者会議を含めて文科省自体は問題が根深い。しっかりと政府及び大臣の監督と決断を期待している。
※野党の政権批判は期待していません。野党の論点はいつもズレており、なんでも政争に使うためというのが見えているため、もっと本質な政権批判でない議論がでない限りは聞くに絶えない。
少し補足すると、受験はある意味人生の選択であり、一定の枠に入れるかどうかで次のステップが変わってくる。数年(中学入学直後から)をかけて大学受験を準備してきた学生がいる中、そして推薦願入学の締め切り後に変更となってしまったことは、今年の受験生にとって、大きなミスリードをさせたことになる。ちなみに私の感想は、大臣はよく決断して今回の英語民間試験を止めたなということであり、責められるべきは文部省と考えている。
さて、課題に対しての打ち手がいかにおかしいのかということを少し説明したい。まずは実施についての批判報道から。
1.公平性の観点
今回の英語民間試験の導入が都市部及び金持ち有利というが、元に戻すことでここ数年は既存の有名進学校が有利になる。都市部の有名私立進学校には、特に都市部でも金銭的に余裕があり、教育に理解のある(投資対象としてリターンが高いと分かっている)人の子供たちが入学している。中高一貫教育では。早い段階から対策をしておりまた対応のノウハウもある。塾も大多数の母数を元に、都市部に体制が整っておりより綿密に対応が可能である。これらは地方や都市部の公立高校の事前対策とは比較にならず太刀打ちは出来ない。ゼロスタートは、過去の優位をリセットするので、本当は開始時点は縮小に繋がる。常識としての一例であるが、都市部の有名進学校の子供達は、小学校の時から塾・家庭教師・お稽古事などの教育費をかけており、その金額の直接的な支払額は一人毎年100万円以上となる。家庭の負担は毎年200万円以上であり、これが平均9年間は必要となる。現状の試験はその蓄積がそのまま使えるので、準備してきた負担と現場における混乱に対する怒りは別として、既存に戻したほうが進学校には有利となる。
2.課題設定
国際社会で英語は重要であり、その習得は今後より重要になるという点について、部分的に正しいが全国として求めるべきかどうか、言わんや大学入試の試験とするべきかどうか。言語の観点から言えば、まともな内容のある母国語を話せない人が、いくら英語を話せても意味はない。海外と仕事をする会社において、英語の話す力向上の施策としてスピーキングのテストを導入して昇格や駐在の要件としているが、TOEIC900台でも合格点に届かない社員が続出している。いい点取れるのは、帰国子女・配偶者が英語ネイティブ国出身・長期英語圏駐在かつ日本人中心で仕事が進まない環境にいたような人になってしまう。簡単に言えば、英語を過度に神聖視せず、大学受験として万人が受けるべきレベルを考えるべきである。必要な人が日本は英語を喋ればよく、その時に本人が努力をします。
3.小学生からの英語教育
まず多くの学校が崩壊します。均質な英語を話せる先生がいないから。外部の外国人に委託するにしても、質が担保されず、評価もできないから。この問題の対策をせずに導入したら現場は崩壊する。子供に本当に英語のスピーキングの力をつけさせるなら、日本人のいない環境に幼稚園から小学生2年生までの1年間、100%英語のみの環境に入れたら大半は話せるようになります。ただし話せるのは子供の英語です。大学受験まで維持するには、日本語の勉強とともに話す英語も合わせた教育環境を継続して与えることが出来ないと、忘れてしまいます。さらに大人の英語にするには、大人としての文章と知識や真剣な対話経験が必要になります。
4.国際社会での英語のランクが低いとしているが、日本は大多数が受験し、英語のできる上位層だけが受験している国と比較しても意味はない。受験者の母数間違えば、その目的も異なり、あくまで統計は統計でしかなく、都合よく統計を使った文科省の誘導は嘘と同じである。
大臣を含めて政府に考えてもらいたいのは、この国をどのような国にしたいのかであり、それを実現するためのプロセスである。それと同時に、そのプロセスはどこが行うべきかだ。日本語を捨てて、シンガポールみたいに英語を母国語にしてグローバル社会の中で生き残りをかける未来を志向するのか?そんな議論もビジョンもない中で、短期的な英語導入を進めても意味はない。私は英語が話せて使えるからこそ、大半の人にとっては英語はツールでしかないと言い切れるし、その視点から見ても、効果の無い壮大な無駄に時間と金をつぎ込む未来しか見えない。英語ができるようにするためには、短期集中して一定レベルまで習得させることとその維持環境の構築である。
大学入学の選抜試験なら、基本的な試験と後は大学別に任せたら良い。英語の話せる生徒を集めて卒業させる大学があっても良いし、そこが就職を含めて人気になれば追随するとこもでる。画一的に全ての大学の前提とすることは必要ない。
文科省で意思決定されている人は、自分のことを賢く仕事もできると思っているようであるが、目線が目の前の課題解決の視点しかなく、より大きな視点で見ることができていなかったり、予算消費のために壮大な無駄をわざわざ内部の論理だけで計画したり、開始したら間違いに気付いても出世のために突き進んだりしてしまう。許認可等の影響を維持するために、管轄業界に対して飴と鞭を使うためだったりするので、有識者会議を含めて文科省自体は問題が根深い。しっかりと政府及び大臣の監督と決断を期待している。
※野党の政権批判は期待していません。野党の論点はいつもズレており、なんでも政争に使うためというのが見えているため、もっと本質な政権批判でない議論がでない限りは聞くに絶えない。