YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

シドニー貨物駅の話(その1)~シドニー滞在

2022-04-07 14:20:39 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・シドニー貨物駅の話(4月14日~6月6日まで)
 こちらも週給制で1週間に一度、賃金は支払われていた。入ったばかりで、先週は支払われなかったが、今日4月29日、2週間分(4月14日~4月24日分まで。但し休みの土、日、祝日は除く)として74ドル貰った。1日7時間労働で8ドルとチョットとは余りにも賃金が安かったが、仕事は非常に楽で、何とも言え無かった。因みにダーウィンでは1日8時間労働で12ドル貰っていた。 
 私の職場はシドニーの西側にあり、『ダーリング・ハーバー』と言う港近くの貨物駅(正式名『Daring Harbor Goods Station』)でした。キング・クロスの家から歩いて25分で職場へ行けた。通勤は電車賃を節約する為、大通りのウィリアム通りを使うか、裏通りを使って毎日歩いて往復していた。勤務時間は、普通8時00分から16時00分までの7時間労働、時には早朝出勤もあったが、退勤時間もその分、早かった。昼食時間は、11時半から12時半までの1時間で無給であった。又、午前10時と午後3時のティー・タイムとして15分から20分程の休憩時間があり、これは有給であった。
 ティー・タイムの時間になると仕事はそっちのけで、皆一斉に売店へ紅茶を買い求めに集まって来た。お昼も売店でハンバーガーやフィッシュ・アンド・チップス等を買って食べていた。大勢の労働者が一斉に買いに来るので、結構売店の周りは賑やかであった。
 荷役労働者は純粋なオーストラリア人も居たが、殆どはギリシャ系、イタリア系、ドイツ系、ユーゴ系の移民達であった。とにかくヨーロッパに於いても比較的経済後進国の移民の人々が多かった。又私の様な一時的労働者はイギリス人、ニュージーランド人、カナダ人達が働いていたが、アジア人は私1人だけであった。因みに3ヶ月間シドニー滞在中、アフリカ人やアボロジニの原住民は見掛けなかった。従って言葉も英語の他、変なオーストラリア英語とか、ギリシャやイタリア訛りの英語が乱れ飛んでいた。これで仕事が間違いなくやって行けるものだ、と変なところで感心した。
 何れにしても、この貨物駅は色々な国の人が働いている、〝マルチ・カルチャー・コミュニティー~Diversity~Melting pot〟(人種的・文化的多様性を持った社会)を形成している不思議な職場なのであった。このマルチ・カルチャー・コミュニティーはシドニーでも、メルボルンでも、何処の都市・町でも、そしてオーストラリア全体に存在し、この国を形成している、と言っても過言ではなかった。 
 仕事は荷役作業で、貨車からトラックへ、トラックから貨車へ、或は貨車から貨車への積み卸しの作業でした。大勢の仲間と作業するので、重労働と言う事ではなかった。適当に時間を見計らってノンビリ作業して、1日の労働を終らせていた。しかし5月23日の貨車へビール樽の積み込み作業は目いっぱい働いた。
 貨物駅は広く、そして幾つもの線路があり、たくさんの貨車が留置してあった。こちらに留置してある貨車の中の荷物をあちらの貨車へ積み替えする、と言う仕事もあった。その仕事の為、私もトラックのドライバーの助手として助手席に乗り込み、ドライバーと共に作業をした。とにかく全体的に仕事量が無いので、がんばれば午前中に終ってしまう仕事を1日掛けノンビリしてやるのが重要であった。私がチョッと一生懸命荷物を運ぶと、ドライバーは、「Take it easy, my mate.(相棒、もっとゆっくり。)」と言って急がせないのだ。或いは荷物を50m先の貨車へ積み替えるのに、ワザワザゆっくり遠回りして、又時には、貨物駅を一回りして積み替えした。一つ一つの作業をこんな無駄な動きをして仕事をしなければ、その日の終りの就業時間まで持たないので、彼等はのんびりとやっていた。人員を削減して、倍の仕事、動きをするから1日12ドルは欲しいと思った。叉、その方が我々労働者も州有鉄道の方も合理的だと思うのであった。
 ・5月1日(木)~同じ仕事をしている若い作業員が私を呼ぶ時、口笛を吹いて手招きしたのであった。名前を知らないからと言って犬ではあるまいし、失礼極まりないと感じた。だから、「私はYoshi と言う名前があります。人を呼ぶ時は名前とか、すいませんとか、何か言え。口笛なんか吹いて手招きで呼ぶな。私は犬でも、動物でもないのだ。You are a cheeky buster!! (この青二才野郎)」と言ってやった。彼は何にも言い返せなかった。ステーキハウス・レストランの若いドイツ人でも同じであったが、彼等と共に仕事をする時は、『白人なんかに舐められてたまるか』と言う気構えがあったし、そんな気持ちが大切な事であった。
 ・5月6日(火)~今日の助手として組んだドライバーは、ギリシャ系の人でした。彼は、「ここの給料は安過ぎる。」とぼやいていた。叉、「ここの仕事だけでは生活して行けないので、土・日も仕事をしている。」と言っていた。彼は「母国へ帰りたいと望んでいるが、母国は貧しく帰っても仕事が無い。そして自分の子供はギリシャ語が話せないので、帰るのは難しい」とも言っていた。『帰りたいけど帰れない』と言う、彼等移民達のそんな悩みを私はよく分るのであった。
                    *その2へ続きます