YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-18 09:04:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
△1969年(S44年)当時のシドニーの全景(ほとんどの建物はイギリスの様にレンガ造りであった)~絵葉書より


       △今の(2015年)シドニーの全景~CFN

・昭和44年6月15日(日)曇り(タロンガ動物園と加山雄三、田中邦衛)
 午後3時頃、最近知り合った牛丸さん(仮称、以後敬称省略)の所へ行ったら、動物園へ行く事になった。我々2人はポート・ジャクソン湾(通称シドニー湾)のサーキュラー波止場NO5からフェリー(船賃往復30セント)に乗った。因みにサーキュラー波止場は、オーストラリアへ最初に移住者が上陸した地点であった。私は船上からオペラハウス、ハーバーブリッジ、そして対岸の街並み等の光景を眺めていたら、改めてシドニー湾の美しさを再認識した。  
 15分程で対岸のタロンガ動物園(入園料60セント)に着いた。動物園側から見るシドニーの光景も又、美しかった。この動物園オーストラリアにだけ生息するコアラ、カンガルー、カモノハシが見られ、有名なのだ。カンガルーは以前から東京の上野動物園で見る事が出来たが、コアラやカモノハシ(英語名Platypus)は知られていなし、日本で見る事が出来なかった。それにしても、タロンガ動物園は上野動物園より種類が少なく又、園内は汚かった。
 我々は動物園からの帰り際にベネロング岬にあるオペラハウスに立ち寄り、シドニーの夜景を楽しんだ。このオペラハウスはシドニー市民の自慢の建物の一つになっていて、純白のユニークなデザインは優雅で美しいが、なかなか完成しないのでも有名らしい。
牛丸はチキンを買って、オペラハウス近くの公園で食べたにもかかわらず、「中華料理が食べたい」と言うので、我々はキングス・クロスにある中華レストランへ行った。このレストランは高級と言う程でもなく、座席数もそんなに無かった。客は誰も居らず、我々は中程のテーブルに着いた。
 それから間もなく、中国人風の男2人と均整の取れたミニスカートのかわいい女性が入って来た。先頭の男がたれ目であったので、私は声を出して「先頭の男はひどくたれ目だったぞ。」と牛丸に言った。彼等は我々の直ぐ後のテーブル席に腰掛けた。私の位置から振り向かなければ彼等が見えないが、牛丸の席からは良く見えた。
すると耳元で牛丸が、「おい、あれは加山雄三と田中邦衛だぞ。」と言うのであった。振り返ってよく見ると確かにそうであった。すると「たれ目」と私が言った事が聞こえてしまったか、『うまくなかったかな』と案じてしまった。
料理が出て来て、我々は食事を楽しんだ。彼等の話し声は少し聞こえたが、話している内容までは分らなかった。私は時たま振り返って彼等の方を見た。加山は女性と英語で話をしていたが、田中は英語がまるっきり駄目な様で、二人の会話に入れない状態であった。その内に彼等の話し声も少し聞こえてきたが、その話題も我々と同じ様な内容であったが、加山の口調は少し粗い感じがした。
牛丸は席を立ち、彼等の方へ話しに行った。私は別に話をしたいとは思わなかった。過去何回か『若大将シリーズ』を見た事があったが、彼個人、又1人のスターとしてそんなに興味が無かった。私としては日本だろうが外国であろうが、たとえ有名な映画スターが隣の席に居ると言うだけで、わざわざ話をしに行く気に成れなかった。否、寧ろ外国だから返ってそっとしておいた方が彼等の為にも良いのではないかと思った。だから牛丸に「やめろ」と言ったが、彼は加山達の席へ行った。牛丸の聞いた話では今度、『南太平洋の若大将』のシリーズ撮影で当地に来ている、との事であった。
我々がレストランを出る時、牛丸は又、彼等の所へ行って、「良い映画を作って下さい。」と言った。私は彼等に黙ってレストランを出た。余談だが、それから2年後のある私鉄の車内で田中邦衛を見掛けた事があったが、加山雄三とはあれ以来、1度も見掛けてない。
 シドニーで知り合った日本人仲間の栗田、岡本、丹羽、牛丸と共に、明日飛行機で帰国する丹羽のオーストラリア最後の夜、キングス・クロスを散策して過した。我々日本人仲間がこの様に集まって、共に語らいながら散策するのは初めてであった。私の傍に仲が悪い岡本と栗田が共に居るのも珍しかった。仲直りしたのか、分からなかった。
 私が2ヵ月半シドニーに滞在して日本人に出逢ったのは、ビジネスマン、観光客を含めて彼等だけ(杉本を入れて、加山氏と田中氏は入れない)で、他の日本人とは1度も会わないし、見掛けなかった。日豪の貿易が盛んになったとは言え、狭いシドニーの街に日本人ビジネスマンや団体を含めて観光客を1度も見なかった。オーストラリアは白豪主義政策取っている昭和43年~44年当時の日本人は、まだ数える程であった。