YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

キャンベラ観光とマイケルとの再会~キャンベラ、シドニーの旅

2022-04-16 14:35:37 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年6月12日(木)晴れ(キャンベラ観光とマイケルとの再会)
  今日、ブレインと共に市内見物に出掛けた。最初、我々は戦争記念館(オーストラリア人戦没者の慰霊の為に国が建てた記念館)へ行った。館前にドイツの列車砲(貨物車に長砲身・大重量の大砲が備えられている列車)と旧日本海軍の2人乗り用特殊潜航艇が我々を迎えてくれた。
 館内は戦争絵画、ジオラマ、その他展示物があるが、数としては少ない感じであった。目立つものとして、オーストラリアのアンザック作戦の物が多かった。日本関係として、1945年ボルネオ島で獲得した日本軍の豆戦車2台、各種兵器、軍刀、日の丸の寄せ書き等が展示されていた。私はその寄せ書きの一つに、『米英なんぞ怖れるな。男だ度胸だやっつけろ』と言う文言が印象に残った。絵画には幾つかの原爆投下後の広島や東京の焼け野原の風景を描いた作品があった。
 この後、我々は市内を散策した。確かに街は美しく、『良い政治は、良い環境から』と言う印象を受けた。しかし長く住んで行くには“何か物足りない”(色々な遊び場が無い、ネオンチカチカの繁華街・歓楽街が無い)し、整然し過ぎて返って無味乾燥な飽きる街に感じた。
 その後、ブレインがカナダの旗を貰いに大使館へ行くと言うので、私も付き合った。この様に何かを気楽に貰いに行けたり、遊びに行けたり出来るカナダ大使館が羨ましかった。それに引き替え日本大使館は、『気楽に立ち寄るな』と言う雰囲気がありありであった。私は日本大使館で横柄な言葉使い、或いは慇懃無礼な態度で迎えられた事を決して忘れない。大事な用事が無い限り日本大使館へは行きたくない所であった。
 ここキャンベラは内陸に位置している為か、シドニーより寒かった。真冬には時々雪も降るらしい。帰りにストアに立ち寄り、夕食と明日の朝食用に何かを仕入れた。街は店屋、レストラン等が少ない様に感じられた。
 夜になって、私がユースの談話室に居たら、珍しい人、噂をすれば影どころか本当にマイケルが談話室に現れた。ブレインは彼が今日来る事を一言も言ってなかった。
「マイケル!、イケルではないか。ここで再び会えるなんて嬉しいよ」と私は手を差し出した。
「ヤアーYoshi、Genki desuka(これは私が教えた日本語)。キャンベラで再び会えるなんて奇遇だね。」我々はガッチリ握手した。
「所で、私は貨物駅を5月30日で辞めたのだが、Yoshiはいつ辞めたの。」
「私は6月19日にオーストラリアを去らねばならないので、貨物駅の仕事を6月6日で終りにしたのです。帰国前の最後の旅にキャンベラに来たのです。マイケルは今日、シドニーから来たの。」
「2日間ブルーマウンテンへ行っていたが、今日そこからヒッチで来たのです。」
「私は昨日来て、明日シドニーへ戻るのです。マイケルは。」
「私は後2・3日したらブレインと共にパース(西オーストラリアの州都。鉱山の仕事がたくさんあるらしい)へ仕事を探しに行くのです。」
「そうですか。シドニーは駄目ですか。」
「シドニーは稼げる仕事がないからなあ。」
そんな話をマイケルとしていたら、ブレインが入って来て、「スキー講習とスキーの映画を見に行こう。」と言う事で我々3人は出掛けた。
 彼はその場所を誰かに聞いていたらしく、知っていた。だが着いた場所は物置小屋、中に人が10人程居た。私はスキー映画の場所が、何処かの映画館か公営建物内とばかり思っていたので、ビックリであり、ガッカリであった。薄暗い小屋の中、しかも寒くってかなわなかった。来なければ良かったと思った。それに私はスキー経験が全く無く、知識も無かった。勿論スキー講習は英語での説明で難しかった。そしてスキー映画ではなく、スライドだとか。それが時間の都合により、スライド上映は無かったのだ。とんだスキー講習会と映画会であった。
 帰りの途中、マイケルが強がっているので、それならジャパニーズ・レスリング(相撲)をしよう、と言う事になった。私がルールを簡単に説明した。原っぱで土俵はなかったが、「手をついて、ハッケヨーイ、ノコッタ。」と言って相撲を取った。私は彼を投飛ばしてしまった。「Yoshi、もう一番。」
又負けて、「もう一番。」何回もマイケルは繰り返した。何回しても私はマイケルには負けなかった。7・8回取って終に、彼はギブアップした。寒かったので身体は温かくなった。しかし全部勝ってしまって彼に申し訳なく、かわいそうな感じがした。