YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

四日市入港と鳥羽見物~日本の旅

2022-04-25 09:07:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年(1969年)7月4日(金)小雨(四日市入港と鳥羽見物)
 朝起きて、日本本土が見えるか、甲板に出てみた。小雨が降っていて視界が悪く、まだ何も見えなかった。南太平洋の海は紺碧の色をしていたのに、日本近海の海は、余りにも濁っていた。日本経済の発展の裏で環境や自然が破壊され、海や河川が汚染されていたのだ。
 何も見えなかったが、暫くの間甲板に佇んでいると、何処かの島か本土が遠くぼんやりと見える様になって来た。何日も何日も見えるのは大海原だけであったのに、行き交う船も見られる様になって来た。『日本だ!日本に近づきつつあるのだ!嬉しい!やっと帰れるのだ!』という気持と、『私はもう旅人ではなくなるのだ。』と言う一抹の寂しさが入り混じった、おかしな気分になって来た。
 朝食が済み、間もなくしてから日本船が横付けされ、税関・入国審査の役人や銀行員が乗り込んで来た。入国手続きをした後、僅かばかりのオーストラリア・ドルを日本円に交換した。
 私は甲板に出て、船が四日市港に入港するのを眺めていた。小雨の中、ロイヤル・インターオーシャン・ラインズ・チルワ149号は、12時前に四日市港の岸壁に接岸した。まず私が気付いた事、それは港湾がヘドロでとても臭く汚かった事であった。シドニー港の海のきれいさ、港の光景の美しさを比べたら、四日市港は嘆かわしく、こんな汚い港を外国人に見せたくないという感じがした。外国へ行か前から『四日市ぜんそく』の公害が発生し問題になっていたが、この状況を見ると何ら不思議でないと感じた。
 甲板にいたフレッドおじさんは、岸壁に迎えに来ていた知り合いの日本の若者を発見し、その名前を叫んでいた。岸壁の彼もフレッドに気が付いたのか、何か叫んでいた。彼らはお互いに再会の喜びを、手を振り合って確かめていた。フレッドの横顔は、嬉しそうであった。
 船内で昼食を取った後、私の乗船仲間が、「鳥羽のオパール・アイランドへ行って、真珠の作っている所を見たい」と言うので、案内がてら私も彼等と共に行く事にした。本来なら私はここから真っ直ぐ埼玉へ帰る予定であったが、彼等に誘われ又、私自身もう少しの間、旅の気分が味わいたいので彼等と共に行動した。勿論、彼等は日本語も地理も分らないので、必然的に私が案内役兼通訳をする事になった。我々は近鉄特急電車で鳥羽へ、乗客は我々の国際的組み合わせが珍しいのか、(美人の?)メアリーに興味あるのか、ジロジロと視線が我々に注がれていたのを感じた。
 しかし折角鳥羽に着いたにも拘らず、見物時間が既に過ぎていて、彼等の期待に応える事が出来なかった。勿論わざわざここまで来たのだから是非見せてくれるよう、私は特別にお願いしたのであったが、融通が効かなく駄目であった。日本人としての私は、彼等に申し訳ない気がした。我々は仕方なく鳥羽の街を散策したり、パチンコをしたりした後、土砂降りの中、鳥羽駅に戻った。
 夜、青い灯赤い灯の灯(とも)る四日市の飲み屋街のバー(彼等にとって若い女性が薄暗い部屋でもてなす酒場が珍しかった)を覗き込んで楽しんだり、大衆的酒場に案内してお酒を飲んだりして、彼等と共に日本の夜を楽しんだ。そして私は、今夜が最後の船内宿泊となった。
 今日、私は日本に到着して日本人に日本語で話そうと思ったが、2週間以上日本語を話していなかった為か、無意識の内に何度か英語で話し掛けてしまい、私の頭の中は、英語と日本語の切り替えが少し変であった。