YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

船旅を楽しむ~船内の様子

2022-04-24 10:42:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
△船内の食事風景(一番右が私)~私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリー

・昭和44年6月24日(火)~7月3日(木)(船旅を楽しむ)
 最初の頃、救命袋の着用方、及びBoat Station(救命ボートが格納されている所)へ集まり、ボートへの人員、並びに割り当等を確認し、異常時に於ける脱出訓練が3回あった。
船旅で一番の楽しみ、それは食事であった。朝は8時30分から、昼食は午後1時から、そして夕食は午後7時からであった。昼食と夕食の基本的な料理を紹介すると、スープに始まり魚料理、肉料理、パン、アイス・クリーム、果物、そしてティー若しくはコーヒーであった。日によって料理の種類は変わり、料理については満足であった。 しかし、食事の時のテーブル・メンバー8人が余り良くなく、16日間3度3度食事を共にして来たにも拘らず、アメリカ人のメアリー以外、誰も名前を覚えなかったし、親しく話をした事も無かった。そのテーブルメンバーは、私の右隣から若夫婦(男は髭を生やした26歳前後)、おじさん、おじさんの娘、高級船員、おばさん、そして私の左隣はアメリカ人のメアリーであった。メアリーはいつもガツガツと食べていた印象であった。彼女のスタイルは良いが、顔付きはきついし、態度・口調も私好みの女性でなかった。私の正面で隣同士の船員と娘さんは、いつも親しげに話をしていたが、後の皆はしらけていた。そんなしらけたテーブル・メンバーでは楽しみな食事も今一であった。
 一度だけであるが、デッキ上で船長主催の豪華なディナーパーティがあった。いつもサンダル履きでシャツに半ズボンの普段着で食事をしていたが、この時の私は白のワイシャツにネクタイ、ズボンを履いて参加した。乗船客の皆もドレス・アップして参加した。普段、出ない海老や豪華な肉料理等が出され、そして飲み物でシャンパンも出て、私はパーティを楽しんだ。我々は船長をパーサーから紹介され、船長は我々を接待してくれた。
 船旅は退屈するのでダンス、映画、ビンゴーゲーム、デッキ(甲板)でのホース・レーシング・ゲーム(競馬遊び)、卓球大会等、色々な催しがあった。私はダンスが踊れないので、見ているだけでした。船で横浜からソ連のナホトカへ行った時も、ダンスパーティーがあったが、つくづく習っておけば良かったと思った。
 デッキに卓球台が置かれていて、華僑のタンと時々ピンポン(卓球)をしていて、大概私が負けていた。そんなある日、卓球大会が催され、決勝に勝ち進んだのが私とタンであった。3セット21本勝負で21対13,21対18の2連勝して私が勝ち、優勝した。その日の夜、ホース・レーシング・ゲームと合わせて表彰式があり、船長から優勝の賞状と賞品としてクリスタルの灰皿を頂いた。
 この船のエコノミー・クラスの乗客は60人位、その中に日本人は私1人であった。年配の日本人に気を使うのが嫌で、私の場合は居ない方が良いので、お陰様で気を使わなくて済んだ。
乗客の幾人かを除いて、皆45歳以上の年配者であった。その幾人かの若い人とは、出航の日に初めて会ったタン、フィリップ(中国名Tung Shui Cheeマレーシア出身)、フレッド(中国名Yee Yun Sang香港出身)、そしてアメリカ人のメアリーであった。
横浜からナホトカまでのソ連船・ハバロスク号は日本人の若い人が殆どであったが、この船はオーストラリア人の紳士淑女の年配の方が殆どであった。歳をとってからでもこの様に気軽に海外に出掛け、優雅で豊かに一時の人生を過していた。やはりオーストラリアは豊かな国であった。 しかし折角寛げる時間を持ったのだから、ノンビリ過ごせば良いと思うのに、編物をしている多くのご婦人方を見掛けた。豊かに生きる一方、堅実的なオーストラリア人気質を垣間見た感じであった。
 私は何もする事が無い時(いつもそうであるが)、ピンポンをしたり、小さなプールで泳いだり、デッキに出て大海原、或は紺碧色の海に浮かぶ南洋諸島の過行く小さな島々をぼんやり眺めていたりしていた。私はノンビリと過ごせる船旅の方が空の旅より好きだった。将来、ノンビリした気分で再び船旅が出来るその時が、又来るであろうか。漠然と思うに、2度と無いであろうと。それでは若い時に、この様な経験をしても良いではないか、と私自身を納得させて船旅をしているのであった。
 話は全く変わるが、この船会社はオランダ人が経営しているが、下級船員は全て中国人(華僑、台湾人)であった。彼等に聞いたところ、月A$50(2万円チョット)であると言っていた。


△船長主催のディナー・パーティにて-右から私(右手だけ見える)、フィリップ、タン、エバンス夫人、ベンドレィさん


   △船長主催のディナー・パーティにて-船長と握手する私


△ダンスパーティーにて~股にオレンジを挟み、マドロスパイプを吸っている私と同じ食事テーブルのおばさん


       △ホース・レーシング・ゲーム~後ろの一番左が私


 △Royal Interocean Lines Tjiluwah Voy. 149-A(チルワ149号、オランダ船籍)
  シドニーから四日市間を航海中


黄金色に染まった港を出港~心残りでオーストラリアを去る

2022-04-24 10:37:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第12章 船旅
・昭和44年6月23日(月)晴れ(黄金色に染まった港を出港)
 本日12時に出航予定であったが、午後の5時に変更された。そして太陽の沈む頃、ブリスベン港に黄金色の光景を残し、船は静かに出港した。これでオーストラリア連邦国、そしてオーストラリア大陸の本当の見納めになるので、その想いは一塩の物があった。私はデッキに佇み、黄金色に染まったブリスベン港、そして日が沈んでからもモートン湾の光景を虚ろに見ながら、いつまでオーストラリアの日々に思いを馳せた。
 シドニーと同じくブリスベンも内陸まで湾が入りこみ(河口まで20km程)、外洋に出るまで1時間余り要した。