『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

 「坐禅」 の源流〜 それは中国の道教にあった 「坐忘」

2021-07-17 21:40:16 | 小覚

> 顔回がいった、「わたくし、進境がありました。」

仲尼はたずねた、「どういうことだね。」

「わたくしは仁義のことを忘れてしまいました。」

「よろしい。だがまだじゅうぶんではない。」

 

別の日、〔顔回は〕また面会するといった。

「わたくし、進境がありました。」

「どういうことだね。」

「わたくしは礼や音楽のことを忘れてしまいました。」

「よろしい。だがまだじゅうぶんではない。」

 

別の日、〔顔回は〕また面会するといった、

「わたくし、進境がありました。」

「どういうことだね。」

「わたくしは 坐忘(ざぼう)ができるようになりました。」

仲尼は居ずまいを正してたずねた。

「坐忘とはどういうことか。」

 

顔回は答えた、「手足や体の存在をうち忘れ、耳や目の働きをうち消し、この肉体から離れ心の知を追いやって、あの大きくゆきわたる〔自然の〕働きと一つになる、それが 坐忘 ということです。」

 

仲尼はいった、「一つになれば〔ひとりよがりの〕好き嫌いはなくなるし、変化していけばかたくなでなくなる。

おまえはやはりすばらしいね。このわたしもお前の後からついていこう。」

[※ 『荘子』内篇・大宗師篇 第六/金谷治:訳注より]

訳注;「坐忘」ー司馬彪いう、坐して自ら其の身を忘ると。坐ったままで万事を忘れ去ること。斉物論篇第一章、南郭子綦の「吾れ我れを喪(わす)れたり。」に当たる。

 

‥‥ 「坐忘」の箇所の読み下し文は、

「枝体(したい)を堕(こぼ)ち聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同ず」

訳注;大通の「通」は、ゆきづまることなく万事万物をつらぬき流れること。自然の道の働きをいう。…… 王叔岷は、…… 大通とは得道の至境をいうとした…… 

 

‥‥ まー、ゆーまでもないが「仲尼」は顔回の師である孔子のこと

孔子の母上は顔徴在といわれ、顔回と同じ顔氏の生れ、「儒」は葬儀を扱う霊能者集団であったと聞く

酒見賢一『陋巷にあり』(全13巻)に出てくる孔夫子は、強大なる霊力を持ち、教科書に出てくる「孔子」とは大違い、顔回と共にサイキック・ウォーを戦い抜く、いたって長編だが瞠目すべき傑作である、この小説の孔子像は 白川静 翁の研究に基づいているが、彼の創出した孔子像が実際の孔丘に近いのではと私は思う

なるほど、古代日本は「儒教」は入れず、「儒学」のみ入れたと云ふ

孔子の儒教には怖い処がある、『易経』はほとんどオカルト(隠秘学)だし、礼楽とは「霊楽」に他ならず、失伝した 【楽経】 には死に至らしめる楽曲が含まれていたらしい

孔子門下で、顔回の評価が高いのは、そーした霊能者としての境涯に焦点をあてたからではないかと思う

道教の「仙道」と相通ずるものがある

そのへんを荘子は汲み取って、顔回に道教由来の「坐忘」をあてがったのではないかと思う

 

この、静観とゆーか、ヒンドゥーのアドヴァイタ(非二元)における真我探究のアプローチによく似ている

ジュニャーニの道では、身体意識に源をもつ「知識」を放棄して、「真の知識」といいますか「最後の知識」、つまり真我実現をめざすわけですが、すべてが自分から流出するとの認識、アダムスキーの云った「大自然と同位に立つ」とゆー境涯…… 

内なる自分に神性を観るプロセス、内なるサッドグルにアクセスするプロセスに「坐忘」が重なってくる

驚くべきことに、この老荘の道教由来の「坐忘」があったから、達磨大師がインドから伝えた「禅」が「坐禅」として定着したのだと云ふ

 

釈迦十大弟子の筆頭、長老格の摩訶迦葉尊者は、釈迦仏滅後の第一結集(けつじゅう)のMCも勤めたし、多聞第一の阿難尊者を育てて、「結集」に参加させもした

結集は、釈迦によって見性(悟り)した者しか参加出来なかったから、それでも「500羅漢」とゆーよーに、ギリギリ間に合った阿難尊者ふくめ500人位はいたわけである

摩訶迦葉が二代目、阿難が三代目、禅宗の系図ではそーなっている

死ぬと、禅寺の檀家は「血脈(けちみゃく)」と呼ばれる、釈尊の弟子(仏教徒)であるとゆー証明書を和尚からもらい、棺桶に入れる

その中には、釈尊から連綿と受け継がれ、檀家寺の和尚にいたるまでに経てきた法脈が記されているそーだ

三代阿難尊者から達磨大師まではインドで、そのあと達磨の仏法を継いだ慧可からは中国が舞台だが…… 

あきらかに、禅風がちがう

中国はインドのよーに哲学的思索よりも、実生活とゆーか実際の現場主義を重んずる風潮が強い

その折り合いをつけた結果が、中国人が知っていた「坐忘」を「禅」にあてはめたものだろー、中国は自分たちが既に知っていることを未知のものにあてがう性癖がある

坐禅にまとわりついている神秘的な雰囲気は、道教の仙道から来るものにちがいない、結跏趺坐はアーリア人の脚の長い釈尊にとっては単なる楽な姿勢にすぎない、坐禅を行法とみるのは間違いかも知れん

道(タオ)といい、大自然といい、八百万の神という…… 

その淵源はひとしく、おなじと観てよいのだと思う

          _________  玉の海草

 

 

 

 

 


 もうひとりの自分〜 「 シャドウ (影) 」

2021-07-13 22:17:25 | 小覚

__ わたしは若い頃から、占星術・錬金術・その他オカルトのマニアで、世界中のあらゆる神秘学を根掘り葉掘り探求していましたが……

例えば伊勢白山道に出逢うまで、伊勢神宮と白山神についてはまったく触れて来ませんでした

いま思い出しても不可思議なことですが、これが「縁」とゆーものなのでしょー

 

「人が見るのは 自分に見えているものだけである。」(C.G.ユング)

 

フロイト・ユング・アドラー等によって広く認知された心理学、なかでもユングの東洋哲学への理解(易経など)と受容力には一目おいていた

その彼が提唱した元型(アーキタイプ)のなかで、「シャドウ()」なるものの不思議には、歳を重ねてからあらためて驚かされることになる

 

(wikiより)>

 かげ、英語:  shadow 、ドイツ語:Schatten は、

物体や人などが、光の進行を遮る結果、壁や地面にできる暗い領域である。影は、その原因となる物体や人の輪郭に似たものとなるが、壁や地面など、影ができる面の角度に応じて、普通、歪んだ像となる。比喩的な意味でも使われ、文学や心理学の概念としても使用される。

なお、光の当たらないところは、区別して、

 かげ、英語:  shade と書く。

 

> 影は、その人の意識が抑圧したり、十分に発達していない領域を代表するが、また未来の発展可能性も示唆する。

その人の生きられなかった反面をイメージ化する力といえよう。

 

‥‥ たとえば映画『マトリックス』のエージェント・スミスは、主人公ネオのシャドウであるし、『ゲド戦記』もまたシャドウと向き合う対決が主題となっているそーだ

心理学における「影」は、闇そのものではなく、暗いものではあるが光を浴びる対象から派生したとゆーか、同時に成立した共生物であろー

このシャドウは、日常的に自分の内部に意識されることは殆どの場合ない

まったく心の奥底に埋没させられ、忘れ去られている

しかし同次元に共に厳然と生きているのだ、ここに「ひずみ」が生じる

 

> 無意識の中にあらゆるものはすべてそうだが、

シャドウは意識の光のもとにさらされなければ、他者に投影されてしまう。

 

> 概して、シャドウは同性に投影される

同性の他人の中に見られる大嫌いな性質を正直に見つめることによって、大きな洞察を得ることができる。

> シャドウと自我(エゴ)は、一緒になって全体を構成する のであり、その全体は、我々がすでに見たように、必ずしも完全無欠(パーフェクト)ではない。しかし、それは、完結している(コンプリート)のである。

> シャドウの心理的姿(フィギュア)は、我々が我々自身の中でもっとも軽蔑するものすべてである。

自分の内で欠けている半面を人格化(投影)していることに気づくためには、両極の間のどこかに、今の自我の中心点を移さねばならない。

自我はこのような移動によってそれが壊されると感じるだろう、これは骨の折れる企てである。しかし実際には、壊されるものは人の能力ではなく、アイデンティティ(主体)でもないが、むしろ自我が自分の家の主人であるという信念であろう。

(引用;リズ・グリーン『占星学』岡本翔子&鏡リュウジ/訳 より)

 

‥‥ 「見る」ことは、かくも重要なことなのである

自分のシャドウを注視するだけで、内心のひずみは爆発しないし、生き霊となって身近な他人に「投影」されることもない

 

> 己の闇を見るものは、すべてを見る。(理神論のハーバート卿)

 

‥‥ 人生の岐路にひとは立って、あるべき自分を選ぶ

選ばれなかったもうひとりの自分が「シャドウ」である

「選ぶ(決定する)」とゆー行為には、選ばなかったものに対する思いやりが求められるのであろー

その因果の輪全体を眺める、いわゆる「遠山の目付け」が静観の心得なのかとは思う

「自分を知る者は世界のすべてを知る」とゆー消息の極め付けは、

『老子道徳経』第47章のこの条りでありましょー

>  戸口から出ないで、天下のことを知る。じっと外を見ないで、天の道をすべて知る。遠くへ行けば行くほど、知ることはいっそう少なくなる。 

[※ 張鐘元『老子の思想』上野浩道:訳 講談社学術文庫−より]

 

‥‥ 外の知識を得ることは自分自身を知るための予備知識に過ぎないと、聖老子は自分自身を見詰めることによりコノ世の森羅万象を知ったとゆーこと、

カール・グスタフ・ユング博士も云われています

 

「 シャドウの中に黄金がある 」

 

創造の光に向けた半身が、自分のすべてではなく、内なる光で照らせば「シャドウ」もほの明るくなります

シャドウは光の当たった「影」なのであり、ブラックホールの如く光の当たらない「陰(シェイド)」とは似て非なるものなのです

 

> もし、影を落としているその体が曲がっているのなら、影をまっすぐに伸ばそうとしてもむだである。(ステファノ・ガッツオ)

‥‥ あくまでも表に出した自分、自ら選んだ自分の姿が主体となる

自分のシャドウが投影された他人をいくら攻撃したとて、問題の核心には行き着けぬもの……

まずは自分をゆるし、それにつれて似たよーな他人をゆるす

キライな他人をゆるすと楽になる、それは隠された自分を認めることだから

情けはひとの為ならず、それと知らずに自分自身にしていた惨い仕打ちに気づく刻が来るかな

以上

 


  決して不幸を手放しません…… トホホ

2021-07-13 16:30:41 | 小覚

 

それを、深刻な【悩み】にしてしまうのは……

いつも、あなた自身に他ならないってか…………

『テレフォン人生相談』の加藤諦三さんの談話より、

 

> 愛は絶対憎しみには変わらない。

愛が終わる時には終わる。

憎しみは執着なんです。愛してるじゃなくて、執着。

依存と愛とを錯覚してる。あなたは依存心が強いんですよ、と言ってあげる。

成長と退行

[※ 退行=子ども返りか? 母胎回帰の願望か? 失われしエデンの楽園を懐しんでか?]

人間はとにかく宿命的に無力。心理的にも社会的にも依存。

生まれた以上はきちんと成長して生きていく。

成長と退行のぶつかりあいが悩みの本質。人と繋がらないと生きていかれない。

成長は不安とリスク、混乱が伴う。

成長が嫌だから、今のままでいいと言う。

悩んでる人は悩んでるほうが楽なんですよ。

先に行くよりも今のままで悩んでるほうが楽。

苦しむのが一番楽なんですよ。

アドラーだって 苦しみは解放と救済につながる と言ってる。

解放と救済をその場でやる。死んでも不幸は手放しません()

★ [※]の部分は、私注です

 

‥‥ いやあ、震え上がるほど 怖い話です

是が非でも現状維持して、悩みとゆー名の苦しみに浸っている方が安定していて居心地がいいだなんて……

人間ってのは、何でも作りだすし、何にでも馴れ親しむモノなんですなあ

まさに創造する力の一端を与えられているわけです

何に使うか、決めるのは選択するのは、あ・な・た・次第

 

> 人生は、人に見せるためのものではありません。

 

> アメリカインディアンの教え

〜 子供たちはこうして生きかたを学びます 〜

〜 Children Learn What They Live 〜

Dorothy Law Nolte

作・ドロシー・ロー・ノルト/ 訳・吉永宏

(加藤諦三著『アメリカインディアンの教え』扶桑社文庫-より)

 

 

⚫︎ 批判ばかり受けて育った子は/ 非難ばかりします

If a child lives with criticism, He learnes to condemn.

 

⚫︎ 敵意にみちた中で育った子は/ だれとでも戦います

If a child lives with hostility, He learnes to fight.

 

⚫︎ ひやかしを受けて育った子は/ はにかみ屋になります

If a child lives with ridicule, He learnes to be shy.

 

⚫︎ ねたみを受けて育った子は/ いつも悪いことをしているような気持ちになります

If a child lives with shame, He learnes to feel guilty.

 

⚫︎ 心が寛大な人の中で育った子は/ がまん強くなります

If a child lives with tolerance, He learnes to be patient.

 

⚫︎ はげましを受けて育った子は/ 自信を持ちます

If a child lives with encouragement, He learnes confidence.

 

⚫︎ ほめられる中で育った子は/ いつも感謝することを知ります

If a child lives with praise, He learnes to appreciate.

 

⚫︎ 公明正大な中で育った子は/ 正義心を持ちます

If a child lives with fairness, He learnes justice.

 

⚫︎ 思いやりのある中で育った子は/ 信仰心を持ちます

If a child lives with security, He learnes to have faith.

 

⚫︎ 人に認めてもらえる中で育った子は/ 自分を大事にします

If a child lives with approval, He learnes to like himself.

 

⚫︎ 仲間の愛の中で育った子は/ 世界に愛をみつけます

If a child lives with acceptance and friendship, He learnes to find love in the world.

 

 

‥‥ この短文に表される因果関係は、自分の子ども時代に照らし合わせても、非常に説得力があります

インディアン(これは必ずしも差別用語ではない、ネイティブ・アメリカン)は、村の長老が若者同士の結婚相手を決めたと聞く

見事な鑑定眼で相性を見抜いて、夫婦として連れ添わせると、にわかには信じがたいのだが、まず離婚はなかったとのこと

インディアンは、「ひととしての自然」といふものを熟知していたに違いない

伊勢白山道の見立てでは、インディアンとはいにしえの日本からアメリカ大陸に移り住んだ人たちとのことで、となれば、かの「グレート・スピリット」とは古神道に由来するとゆーことになろー

大自然に対し奉る姿勢は、神道の神徒とインディアンとでは驚くほど似ている

インディアンには、私もいたく共感して、「レイム・ディア」「ローリング・サンダー」「ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥス(実はメキシコのトルテックだったが)」なんか漁るよーに読んだものだ

自然崇拝とゆーのは、ひととしての根本にあるなあ〜

以上