> 顔回がいった、「わたくし、進境がありました。」
仲尼はたずねた、「どういうことだね。」
「わたくしは仁義のことを忘れてしまいました。」
「よろしい。だがまだじゅうぶんではない。」
別の日、〔顔回は〕また面会するといった。
「わたくし、進境がありました。」
「どういうことだね。」
「わたくしは礼や音楽のことを忘れてしまいました。」
「よろしい。だがまだじゅうぶんではない。」
別の日、〔顔回は〕また面会するといった、
「わたくし、進境がありました。」
「どういうことだね。」
「わたくしは 坐忘(ざぼう)ができるようになりました。」
仲尼は居ずまいを正してたずねた。
「坐忘とはどういうことか。」
顔回は答えた、「手足や体の存在をうち忘れ、耳や目の働きをうち消し、この肉体から離れ心の知を追いやって、あの大きくゆきわたる〔自然の〕働きと一つになる、それが 坐忘 ということです。」
仲尼はいった、「一つになれば〔ひとりよがりの〕好き嫌いはなくなるし、変化していけばかたくなでなくなる。
おまえはやはりすばらしいね。このわたしもお前の後からついていこう。」
[※ 『荘子』内篇・大宗師篇 第六/金谷治:訳注より]
訳注;「坐忘」ー司馬彪いう、坐して自ら其の身を忘ると。坐ったままで万事を忘れ去ること。斉物論篇第一章、南郭子綦の「吾れ我れを喪(わす)れたり。」に当たる。
‥‥ 「坐忘」の箇所の読み下し文は、
「枝体(したい)を堕(こぼ)ち聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同ず」
訳注;大通の「通」は、ゆきづまることなく万事万物をつらぬき流れること。自然の道の働きをいう。…… 王叔岷は、…… 大通とは得道の至境をいうとした……
‥‥ まー、ゆーまでもないが「仲尼」は顔回の師である孔子のこと
孔子の母上は顔徴在といわれ、顔回と同じ顔氏の生れ、「儒」は葬儀を扱う霊能者集団であったと聞く
酒見賢一『陋巷にあり』(全13巻)に出てくる孔夫子は、強大なる霊力を持ち、教科書に出てくる「孔子」とは大違い、顔回と共にサイキック・ウォーを戦い抜く、いたって長編だが瞠目すべき傑作である、この小説の孔子像は 白川静 翁の研究に基づいているが、彼の創出した孔子像が実際の孔丘に近いのではと私は思う
なるほど、古代日本は「儒教」は入れず、「儒学」のみ入れたと云ふ
孔子の儒教には怖い処がある、『易経』はほとんどオカルト(隠秘学)だし、礼楽とは「霊楽」に他ならず、失伝した 【楽経】 には死に至らしめる楽曲が含まれていたらしい
孔子門下で、顔回の評価が高いのは、そーした霊能者としての境涯に焦点をあてたからではないかと思う
道教の「仙道」と相通ずるものがある
そのへんを荘子は汲み取って、顔回に道教由来の「坐忘」をあてがったのではないかと思う
この、静観とゆーか、ヒンドゥーのアドヴァイタ(非二元)における真我探究のアプローチによく似ている
ジュニャーニの道では、身体意識に源をもつ「知識」を放棄して、「真の知識」といいますか「最後の知識」、つまり真我実現をめざすわけですが、すべてが自分から流出するとの認識、アダムスキーの云った「大自然と同位に立つ」とゆー境涯……
内なる自分に神性を観るプロセス、内なるサッドグルにアクセスするプロセスに「坐忘」が重なってくる
驚くべきことに、この老荘の道教由来の「坐忘」があったから、達磨大師がインドから伝えた「禅」が「坐禅」として定着したのだと云ふ
釈迦十大弟子の筆頭、長老格の摩訶迦葉尊者は、釈迦仏滅後の第一結集(けつじゅう)のMCも勤めたし、多聞第一の阿難尊者を育てて、「結集」に参加させもした
結集は、釈迦によって見性(悟り)した者しか参加出来なかったから、それでも「500羅漢」とゆーよーに、ギリギリ間に合った阿難尊者ふくめ500人位はいたわけである
摩訶迦葉が二代目、阿難が三代目、禅宗の系図ではそーなっている
死ぬと、禅寺の檀家は「血脈(けちみゃく)」と呼ばれる、釈尊の弟子(仏教徒)であるとゆー証明書を和尚からもらい、棺桶に入れる
その中には、釈尊から連綿と受け継がれ、檀家寺の和尚にいたるまでに経てきた法脈が記されているそーだ
三代阿難尊者から達磨大師まではインドで、そのあと達磨の仏法を継いだ慧可からは中国が舞台だが……
あきらかに、禅風がちがう
中国はインドのよーに哲学的思索よりも、実生活とゆーか実際の現場主義を重んずる風潮が強い
その折り合いをつけた結果が、中国人が知っていた「坐忘」を「禅」にあてはめたものだろー、中国は自分たちが既に知っていることを未知のものにあてがう性癖がある
坐禅にまとわりついている神秘的な雰囲気は、道教の仙道から来るものにちがいない、結跏趺坐はアーリア人の脚の長い釈尊にとっては単なる楽な姿勢にすぎない、坐禅を行法とみるのは間違いかも知れん
道(タオ)といい、大自然といい、八百万の神という……
その淵源はひとしく、おなじと観てよいのだと思う
_________ 玉の海草