__ 一つ前の記事のコメント欄に、「酒田人の悪相」と書いた手前、写真つきで補足説明して、偉大なる本間家の生き方をサッと素描してみたい。
わたしが、酒田人らしい悪相だなと思ったのは、この御方です。
本間祐介(明治40年〜昭和58年、1907〜1983)
荘内日報社の「郷土の先人・先覚117」より引用する。
>戦後の昭和20年から50年までの間、本間祐介は酒田の顔であった。その顔は評論家の大宅壮一から【何代もかけてできあがった顔】、と評されたほどの深みのある立派なものであった。
写真家の土門拳の風貌とよく似ており、人を威圧する鋭い眼や、がっしりとした骨格は瓜二つである。
【強面カメラマンの嚆矢かも知らん、土門拳、酒田で育ったわけではないが、典型的な酒田の風貌】
__ この悪人顔が、意外にも都会人には評判がいいのですよ。
大谷壮一の人物鑑定眼には、井目おかねばなるまいな。わたしの在郷コンプレックスも大きく作用しているかも知れない。
中町にあった(過去形なのが悲しい)デパート清水屋の顧客になっている酒田の上流層は何か傲慢な処があるんだよね、その反映が清水屋の売り子さんによく顕われていたんですよ。
中町商店街のお店に入っても、売り場の雰囲気が双方向のコミュニティー空間になっていないのね、極端にゆーと「昔ながらの、売ってやるよ」的な商売人のいやみが滲み出ているのよ。過去私が酒田人から受けた非道い扱いが心に染みつき、観る眼を狂わせたものかも知れない。
戦後、日本の軍備弱体化のために行われた「廃刀令」の最中……
本間薫山(酒田市)と佐藤寒山(鶴岡市)のご両山が、日本刀の海外への流出を未然に防ぎ、日本刀の鑑定の一指標を打ち出したことはあまり知られていない。
古刀は薫山、新刀は寒山が日本刀研究の権威であった。
古武術家のYouTubeを観ると、刀剣の箱書きに「寒山」の名を見かける。いわば刀剣鑑定の祖・本阿弥光悦の折り紙付き(=お墨付き)の確かな刀剣みたいなもので、戦後の刀剣相場を決めたのはこのお二人であると言っても過言ではあるまい。
【本阿弥家が発行した「折紙」、水戸黄門の印籠みたいな効果があった】
この薫山・本間順治は、本間祐介の実兄である。
本間美術館を創設して、「本間焼」を創り出した。
本間祐介・池田退輔のご両所が、著名な陶芸家に弟子入りして、「陶土」をつくり上げて打ち出した長次郎の楽茶碗は、平成9年に「本間焼」と命名された。
実は、わたしも退輔先生のお弟子さんの指導をうけて、作陶したことがある自称孫弟子である ♪
わたしの先生のもとで、退輔先生のやり損ね(釉薬がしたたり過ぎたもの等)はよく手にとって拝見させて戴いた。黒の楽茶碗だったが、そのまろやかで重厚な味わいに陶然とした覚えがある。当時、黒楽一碗50万円だったと思う。
祐介翁も作陶なされていて、あのお顔からは想像できない柔らかな手馴染みしそーな逸品である。
【本間祐介翁実作の赤楽茶碗、意外にもふんわりと温かみがある】
酒田の本間様(地元の者は、今でもこうお呼びする)は、たんに大地主であるだけではないのだ。
打ち続いた飢饉の折には、自らの蔵に貯蔵していた米俵2万4千俵を民衆に放出したり(お蔭で餓死者はひとりも出なかった)、鶴岡の酒井の殿様を援助したり、戊辰戦争では多量の最新鋭鉄砲を購入して荘内藩を後方支援したりなさっていた。
酒田の日本海沿いに延々と広がる砂防林を造ってくださったのも本間さまである。
近年では、財団法人『荘内育英会』も、『光丘文庫』も、本間家の真精神を端的に世に顕したものであるなあ。
本間祐介遺稿『無為庵覚書』より、ちょっと豪商・本間家の内情を窺ってみよー。
> 本家の伯父(光弥氏)が、
ザリコールとかいう病気に冒され、慶応病院に入院治療されていたので、…… (略)……
暑いさかりの七月下旬の朝まだき54歳を一期に人生の幕を閉じられた。
これは後に聞いたことであったが、臨終の迫ったことを察して、伯父は看護婦に手伝わせて衣類を正装に整え、皇居の方に向かって正座して遥拝し、故郷にも向かって有難うと言って、間もなく引きとったということであった。
> この伯父さんを霊柩列車で酒田に送り、盛大な葬儀の行われたことは当然であったが、この時、宮内省の角楠さんという建築の博士から贈られた弔歌を今も忘れることはできない。
「天も泣け 地も泣け 出羽よ最上よ 国の主を失いせしこの日よ」
と記憶するが、実際光弥大人の生前は一庄内などということではなく、県全体としての主というに相応しい存在であった。
> 本間家先代光正氏のこの戦争(第二次世界大戦)に対する協力の態度は、さすがに見上げたものがあった。
陸海軍に飛行機を一機ずつ献納したのを始め献金のこと、その他寄付のこと、そんなに激しく献金をやるんでは本間家の財産は何も無くなるでしょう、と申し上げたら国が亡んで本間のみが残って何になるんだと叱られたことがあった。
が代々の本間の精神からいえばいかにもと思った。
__ ザッと祐介翁の遺稿に目を通すと、その高い見識と代々受け継がれてきた真精神にぐーの音も出ません。
かの「庄内竿」の名品を一手に集めた釣具屋でもあり、城下町鶴岡とはまた違う風流が酒田にも息づいていたのが見てとれる。リール竿とのせめぎ合いが、かえって酒田からリール竿を発信することを促したりする展開は、庄内武士道の裏芸であった「釣り」の盛衰を左右したりしている。
「庄内竿」については、博学無比の今東光が、本間家の土蔵に設置された「庄内竿」独特のメンテナンスを釣り雑誌に紹介して、世間の釣りバカをいたく刺激したものだ。
本間家では、長い庄内竿を何本も壁一面に横に寝かせて、一時間毎にクイッと竿の軸を回すのだそーだ。そーして偏りなく均等に「まっすぐな状態」で竿が保管されるよーに管理したとゆー徹底ぶりが如何にも風流だと、豪商本間家を称えた寄稿であった。
わたしたち庶民はうすうすながらも本間家の度外れた最先端への探究心(マーケティングなのかも?)や天下人的な見識を感じとったからこそ、別格扱いで「本間さま」と呼び慣わしたものと思います。
本間一族の有名人の風貌もついでに挙げておきましょー。
【酒田ナンバーワンの色男、本間郡兵衛、葛飾北斎の弟子で号は「北曜」、あの集合写真のフルベッキお気に入りの一番弟子で、英語もよく出来たので薩摩藩の英語教師となった。残された資料からは、ジャニーズ張りにモテたのが伝わってくる。北斎の娘さんのお栄(葛飾応為)とはどーだったものか?】
【いわずと知れた、相場の神様・本間宗久。本間家の代々受け継がれた家訓から云えば、宗久翁の相場で儲けるやり方は邪道であった。分家筋の宗久の出世は必ずしも歓迎されなかったわけである。相場で稼いだその莫大な蓄財を、本家の本間光丘翁は庄内浜の破防林に注ぎ込んでチャラにしたのではないかと憶測している。本間家の徹底した奉仕精神は「武士道」にも劣らぬ潔さがあって、なまなかの心境で為せるものではない。】
庄内人は、人と話をするのに悪口から入るとゆー位に、人をよく見て疑ってかかる批判的精神を身につけてきた。そんな庄内人がすすんで「ほんまさま」と口にするのは並大抵のことではなかっただろー。表に出ない歴史があったことと思う。
戯れ歌とはいえ、その地位(菩薩位とゆーべきか)は酒井の殿様よりも遥かに上と庶民から認められている。
「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」
追伸;昭和の20年頃かしら、酒田の山王祭りの際に、本間家の本家の門前で舞う「奴振り」は、観音寺の町奴と決まっていたそーである。格式高く華やかで難しい奴振りが本間様から評価されてお呼びがかかり、私の親父世代はその晴れ舞台を随分と誇らしく思っていたと云ふ。
_________玉の海草