__ 実は、自分がミジンコなのを自覚するのも、ほとんど無力に等しいイセハクサンダー(伊勢白山道読者の意)であるのもほんとはイヤだったんですよ。
出来ないヤツが「わたしなんか、とてもとても出来ません」なんて云っていても、それは「謙譲の美徳」などと誉められたものでは決してなく、たんに正直であるに過ぎないとゆーのが、私の持論。実力あってこその謙虚さなんじゃないかな。
絵空事を描いてばかりで、世界が平和でありますよーになどと他人事みたいに神に願っている穀つぶし(いつでも誰かに依存する女性信者に多い)なんぞ、何の為に生まれてきたのやらとまで、自分も含めて思い込んでいました。
…… だけど、ちがうんですね。
「ロコ・ソラーレ」の小柄なおふたり(夕梨花さんと夕湖さん)が
【カーリング ちび部 】をつくって活動しているニュースには、何か異様に惹きつけられた。
『おじゃる丸』の「月光町ちっちゃい者クラブ」に意表を衝かれ、「モ・ーニング娘。」の「ミニモニ」にも瞠目した私であったが……
清少納言のゆー「ちいさきもの」に触れて発動するものが、吾々日本人のDNAのなかに組み込まれているのであろーか。
おそらく自我の主張とは「外へ向かう」もので、謙遜や謙虚な心持ちとは「内に向かう」ものと思う。
何かしら、この「ちび部」には、些細なことも丁寧に行う、丁寧に生きる謙虚な姿勢が感じられてならない。
女子バレーボールの沙織・舞子の美形と並んで、たとえその半分くらいしかなくとも、外国人選手のあとに自転車漕ぎのトレーニングしよーとしたら、跨るどころかサドルが胸の位置くらいまであったとしても、ひとりはひとりである。
小さい者の築く城は、からだに合わせて小さくともよろしいわけである。小さいのは足りないわけでは決してない。小さくて美しいものは世間に溢れている。
それゆえ、「小さい事」に焦点を合わせて、自分が主人公となっても当然よろしいわけである。
何か緻密な人間離れした精確さに及ぶこともある「ちいさいもの」への志向は、一番小さなフラクタル(相似形)に向かうのではあるまいかと夢想している。
小さなフラクタル=吾々の氏神さまへの月参りが……
大きなフラクタル=今上陛下やリーマンさんのご神事に合致する、等質であり等価なのではないかと不図思いついた。
たとえ小さなフラクタルであろーと、その人なりのフラクタルを丁寧に生きれば事足りるのではあるまいか。
フラクタルと云ふ意味は、小さいなりの「全体」を網羅してやらなければならないからである。
小宇宙に完結したことは、大宇宙でも完結する。
自ら携わった「小宇宙」を治めねばならない。
ここで、養老先生のYouTube『仕事の悩みで辿りつく境地、結局はこの2択なんです』が参考になった。
好きな仕事をずっとしてゆくためには、嫌いな仕事もしなければならなくなる。そのセットでひとつの仕事になっている。小さなフラクタル、宇宙の摂理の雛型 (相似形) で、小さい内に全体が在る。
例えば、職人技の発揮できる難しい仕事をしたいのに、発注主と交渉しなければならないし、同僚や部下を育てなければならないとゆー「嫌な仕事」がセットで付いてくる。
養老先生は、好きな仕事を続けるんだったら、そんなイヤな仕事も好きになるしか手はないと仰っている。(たしかに、カール・ヒルティもいかなる仕事でも熱心にやると次第に好きになってくると喝破していた)
【養老語録】
> なんかの仕事をしようとすると、実は大抵の場合ありとあらゆる事をしなきゃいけなくなっちゃう。
> 好きな事やりたかったら、やんなきゃならないことは好きになるしかない。
> 仕事を変えるのと、自分を変えるのと、どっちが楽かって話になるんです。
> ある程度肚を括らないとダメなんですよ、半端にやったらだめですから、……
> 生まれてきたら、世の中あったんで、諸君は全員が遅刻してきているんです。
> 後から来たってことは、前もってあることを知らなきゃいけないってこと。
> 後生に重点がおかれている、先生じゃなく……
> 何が好きか、実はよくわからない……
> 好きなことって…… なんか付いてくるんですよ。
> 自分の方を変えちゃって、これはおれ好きなんだと勝手に思った方がいいんですわ。
> われわれ生まれてくる以前から、世の中先にあったってことです。生まれてきたら世の中あったんで、……
(内田樹の比喩)> サッカーのゲームが既にはじまっちゃっている、選手としてそこに放り込まれちゃった、ところがルールも身体の動かし方もなんにも知らない、必死で覚えるしかない、周りみて、それが実は「仕事する」ってことだと思うんですね。
(養老語録に戻る)> 遅れてきているから、追いつこうと思って必死になるわけでしょ、……
> 先生が、先に生まれてどうして偉いのか……
> 後から来たひとは、前もってあることを覚えなければならない
【動画が消えてしまったので、次善の動画を貼ります。↓】
つまる処、好きな仕事を職業とするのも、嫌いな仕事を職業とするのも、究極においてはそんなに変わりはないとゆーことである。
嫌いな仕事のうちにも、好きな要素はあるからである。
個々が直面するすべての全体の「流れ」を、「仕事」と呼ばれる人為活動のなかで執り行い、達成する。
これは、小さいながらも「宇宙を治める」ことと同位である。
人間の小さい仕事のなかに、神が宇宙を統べることと同様の消息が含まれている。
これを、「人間は神性を帯びる」と言い表したものだろー。
いわば、「ちび部」は宇宙のフラクタル、地球規模ではDSの活動に匹敵するのではないかな。
彼女たちの天然自然な笑顔に接すると、励まされる、応援したくなる、面白くって力が湧いてくる。
「ちび部」の本質は、案外深い処まで達しているからだ。
異常気象・567・戦乱のちまたでも、神の如きブログ主(人生百般相談霊能者・リーマンさん)に「彼とうまくゆくか?」訊ねるよーな人にあっても、小さなフラクタルが厳然としてある。
どーか、目の前のことに真剣になってください、信じたくはないが、それが神業となっているだろーから。
永井豪『手天童子』では……
鬼獄界の創造主にして、この物語の始まりと終わりを支配する「大暗黒死夜邪来」は、鬼から我が子 (主人公・手天童子郎) を奪われないよーに必死に守る母親 (主人公の育ての親) の業念がその正体であった。
親子の間の遣り取り (小さなフラクタル) が、次元を超えた宇宙間の広大な戦闘 (大きなフラクタル) となっている。
宇宙の内に「真我」が在るのではなく、
【脳内に宇宙がある】ってリーマンさんが云ってらしたよーな……
自分とゆー小さなフラクタルを丁寧に仕上げてゆくってことで、それがそのまま大きなフラクタルとなり、宇宙の主ともなるんじゃあるまいか。
栄西さんが云ってた「太虚を包みて元氣 (根元の氣) を孕むもの」ってことかな。
[注; 栄西(よーさい)『興禅護国論』序-より]
大いなる哉、心(しん)や、
天の高きは極むべからず、しかも心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかも心は地の下に出づ。
日月の光は踰(こ)ゆべからず、しかも心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界(だいせんしゃかい)は窮むべからず、
しかも心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚(たいこ)か、それ元氣か、
心は則ち太虚を包んで、元氣を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(ふさい)し、
日月は我れを待って運行し、
四時は我れを待って変化し、
万物は我れを待って発生す。
大なる哉、心や。
_________玉の海草