『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

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2023-12-20 03:22:00 | 人間(魅)力

⚫️大正デモクラシー以降の日本人

 

過去に傷付けられた自認トラウマや、他人から認定(心理学・精神医学)されたPTSDによって、

自ら自分を被害者に認定した人びと、普通の健常者のように厳しい世界に直面できないからといって思いやりを求める人びと……

彼らは、「民主主義」というものを上から賜り、「権利」を主張することを覚えた、にわか民主主義者とどこか似ている処がある。

 

明治の民衆は、彼らとは全く異なっていた。

明治人の特徴は、愚痴を言わない処にある。(何故なら、人生受け身で生きていないからである)

中村天風の「絶対積極」は、明治人の生き方を踏襲したもののように思える。(たぶん、それが人間本来の自然な生き方なのだろう)

 

【中村天風の師匠・頭山満翁の書】

 

 

日本人が、「弱くったっていい、人間だもの」と赤裸々に自分の弱さを語るようになったのは、

大正デモクラシー以降

のことなのである。(「偉大なる」太宰治あたりから)

明治以前の日本人に、被害者意識はあまりなかったようだ。出来ないのは自分であり、他人に救いを求めなかったし、そういう自分の現状を愚痴ることはしなかった。(言い訳は恥という感じ方じゃないかな)

 

これは私見だが、「小さい獲得」に一心不乱な人は、その他のものが得られないことには鈍感である。(たとえば、貯金で目標金額を設定している人は、節約によって他の幸せが手に入らないからといって、落ち込んで不幸になることは少ない)

つまり、明治の人は、獲得や達成に一心不乱であったと言える。それは、命懸けの志だったのである。

 

明治の孫である昭和世代は、そんな強靭な意志に憧れたわけですよね。(到底及ばなかったわけだが)

自分を奮い立たせて、あくまでも前向きに挑む人は、できなくても世間とはそういうものだと割り切って【前後際断して】、けっして受け身になって保護を求めたり、当然のごとく他者の思いやりを期待したりはしないものです。

究極の現実主義者というのが、明治人をいいあらわす言葉であろうか。

 

自律で生きる人は常に現在(現実)を相手にして前向きで、

受身(=他律)で生きる人は過去をくよくよ引きずってループさせる、そんな印象を抱いております。

__ 明治人が、愚痴や言い訳しないのは、徹頭徹尾自分を信じていた(自ら恃む)からであろう。

たかだか100年前の日本人はそうであったことを忘れてはなるまい。

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⚫️ドラマ『いちばんすきな花』を観て感じた、女による男の運用ミス

せっかくの、人間付きあいの「微妙な境界」を扱った珍しい種類のドラマが、藤井風の弾き語りが入ったことで台無しになってしまった。

この人は、日本人なら誰も合わないインド🇮🇳にバカ嵌りした珍しい個性。「GRACE」の動画は、地方の普通のインド人を描いていて、当のインド人から評判がいい。(実に素的な表情をしている)

この伝で、ドラマの主題歌「花」の藤井自身によるMVは、ドラマにそぐわない毒毒しいもの。

砂漠に棺桶⚰️、禍々しいまでに美しい原色の毒華に霊柩車……  自分さがしの旅、「内なる花」とは本当の自分であろう。

考察動画のコメント欄📝に、平野啓一郎の「分人主義」を挙げている人がいた。

本来の自分などという固定された確固たるものは無くて、他人に合わせて発露するそれぞれの自分が、本当の自分であるという注目すべき思想。

ヒンドゥー🛕のアートマン(個我)ではなく、分人とは仏教の「無我」に近い、つまり無常である。

それにしても、

藤井風のあの雰囲気(根源的な野生)で、ドラマにインサートされたら、ぶち壊しですよ、せっかくいいテーマ曲なのに。

 

この演出ミスを残念がっていたら、サイコパスおじさん・岡田斗司夫の云う「男の運用ミス」にもリンクした。

人間という霊長類のデフォルトは、女(雌性)であるということ。

現代の女(おそらく平成以降)は怖気づいてしまって、男と対等に付き合ってしまった。

人間社会において、その男を受入れるか(その男の子を産むか)を最終決定するのは、いつも女である。

 

また、偉大な人物たとえば、

釈尊を産んで育てたのも、女性である。

菩提樹下で瀕死の釈尊を大悟にみちびいたのも、女性である。

つまり、釈尊は女性の分身であると、そういうことなんじゃないかと思います。

女性は全体で、本質的には何も変わらないのでは。

 

女性が本来もっていた、その本能的な智慧を、不自然な現代生活が根こそぎ変えてしまったのだと思われます。

智慧は 思考の結果ではない。

[※  魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 〜「悟り」とは何か〜 より]

 

女性は色々捨てて、思考を選んだということかな。

> 幸せ以上のことを求める者は、人並みの幸せが得られないからといって嘆いてはならない。(カール・ヒルティ)

…… ヒルティが言及しているのは、厳密には法悦(神人合一)のようなものを求めるキリスト者のことを指しているのだが、

神理に熱中する男性であっても通じそうだ。

女性はつまるところ、現実の「人並みのしあわせ」を求める者なので、形而上学へ向かうのは男性ということになる。

男は歴史上、つねに「おひとりさま」であることを余儀なくされることが常だったものだが(群れのボスになれなくて、あるいは役に立たなくて、群れから追放される)…… 

現今は、女もまた「おひとりさま」が激増している。

人類の大いなる叡智(=智慧)は、母娘のあいだで伝承されなかったのであろう。

男は相変わらずだが、女が様変わりしたのが、現在の少子化の根本原因であろうと思う……  いや、決して女を責めているわけではない。

そうしたい女の自由をさまたげてはいけないだろう。

ただ、それに気づいている女性が少ないのではないだろうか。

もう一度云う、人間のデフォルトは女である。

 

昔の男は、公の席では女の悪口は言わないものだった。

しかし、最近は女性に対して容赦ない一部の人人がいるようだ。この漫才も、笑いに紛れて痛烈に本音を吐露しているかのようだ。

いまが旬の漫才(M-1グランプリの敗者復活戦より)をひとつ、ご紹介しましょうか。

こりゃ、毒舌漫才のウエストランドより天下晴れている、どうぞ♪

 

__ 可愛らしく、ふところに入って、社会的なエクスキューズ(礼儀)は抜け目なく踏まえておくんだね、

この動画は、最後の不意の爆発音が神がかっていますね。女が納得するのは理屈(思考)じゃないんですよ。

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⚫️ 酒井玄蕃(庄内藩)のひととなり拾遺

 

先だって、NHKの磯田さんの番組『英雄たちの選択』で…… 

幕末最強!庄内藩の戊辰戦争〜徳川四天王・酒井忠次の遺伝子🧬

ということで、酒井吉之丞(玄蕃・げんば)が取り上げられた。(『歴史秘話ヒストリア』に続いて二回目)

▼ 関連記事リンク 《玉断》 庄内人らしく〜 悲劇的によく出来た名将 「酒井玄蕃」

 

番組の内容は、ほとんど既知のことで目新しいものとてなかったが、

あの当時の、徳川譜代としての「武士道」や豪商・本間家の莫大な献金で当時の最高峰の軍備を敷けた有様を、くわしく全国に知らせてくれたことと思う。

 

酒井玄蕃了恒・のりつね)といえば、文武ともに頗る秀でて、なんでも出来る御仁である。

新九流剣術・重正流馬術免許皆伝、長沼流兵学、漢詩、書、雅楽、笛…… と、なんでも御座れで文武を極める。「戊辰役二十絶」が知られている。

早熟の天才である。戊辰戦争で庄内藩・二番大隊を率いたときには、わずか26歳であった。

おまけに仁徳も備わっていると来ているから堪らない。

徂徠学が盛んで、自由で批判的精神の豊かな城下町・鶴岡である。

鶴岡衆(つるおかしょ)は、人を評するに文句から入り舌鋒鋭く欠点をあげつらうのが常だが…… 

そんな鶴岡衆にも、陰口をたたかれることなく、初手から諸手をあげて褒められる人傑が、ただ御二方いらしたそうだ。

ひとりが坂尾清風(藩校「致道館」の儒学者)、

そしていまひとりが酒井玄蕃である。

御二方ともに、その夭逝をいたく惜しまれた。

 

庄内武士の表芸は武芸、裏芸は「庄内竿による磯釣り」であった。じつに風流なところがあった、そのへんは映画『たそがれ清兵衛』によく描写されていた。

庄内藩は、「沈潜の気風」といわれた。質実剛健ながらも、一言でいって暗いのである。

そんな庄内藩にあって、若き侍大将・酒井玄蕃は誰からも後ろ指を差されずに、ひとしく敬愛されていたというのだから、恐れ入る。

 

ただ、そうせざるを得ない一面もあった。伯父の酒井右京(庄内藩家老)はお家騒動の末に切腹したのだが、当時の藩主・忠篤公はその累を若き日の玄蕃にまで及ばせなかった。深く信頼されていたのである。

この忠篤公から賜った御恩に報じるために、後年病いをおして清国へ密偵として潜入した。

忠篤公が、留学先のドイツ🇩🇪から帰朝なされたときに、援護できるように新政府の兵部省で功績を上げておきたかったのであろう。

この無理がたたって病死する。(毒殺説もある

享年34歳、駆け抜けた一生であった。

「敬家」と呼ばれる、庄内藩主酒井侯の分家筋にあたる、名門に生まれた玄蕃は常に庄内藩を背負って生きていたのである。

現在でも、鶴岡市は度外れて民度が高く、気難しい土地柄なんだけどね。

 

庄内藩酒井家は、徳川家康と先祖を同じくする三河武士の雄で、幕府の北の守りを任せられた責任感の強い藩である。(まわりは、強力な外様大名に囲まれていて、北の砦と言える藩である)

徳川幕府から任された使命のおおきさに常に直面して、泰平の世ながらも徳川四天王として、独特の「武士道」を保持しなければならなかった土地柄でもある。

幕末の庄内藩は、江戸市中取締役(現在の警視庁のようなもの)を仰せつかっていた。

京都の市中取締りにあたっていた会津藩・松平家(藩主容保は京都所司代を勤めた)も徳川親藩で、庄内藩酒井家と同じような立場にあった。

「会津は、東北じゃないんです」(井上ひさし・談)

会津藩の伝統文化や住民の意識が中央だという意味で言ったものらしい。

会津藩と庄内藩、このニ藩が戊辰戦争で最後まで新政府軍に反抗した。

 

酒井玄蕃が、先祖代々襲名してきた、この「玄蕃」という名前は、軍事を司る職掌を指しており、いわば「軍師」のような役回りを酒井玄蕃家では任じてきたというわけである。

そんな軍事のお家柄に生まれ、何事にもストイックに「武士道」を追求し、士道覚悟を強いられてきた玄蕃は、さすがに鎧兜も超一流品を所有していた。

武田信玄公の御兜は、「諏訪法性の兜」と称されて、甲冑師歴代日本一といわれる名人・明珍信家の作である。

(明珍家は、近衛天皇から「明珍」の名を賜った。鉄の含有量の多い、いたって堅牢な兜を仕上げた。甲冑師5家では最強の頑丈さを誇った。明治の天覧兜割りには明珍の兜がつかわれたために、豪剣・榊原健吉のみがよくそれを成し遂げたわけである)

【信玄公の諏訪明神法性兜、頭頂にはチベットのヤクの毛、獅子頭の前立てに、吹返しには武田菱(家紋)が刻まれている】

 

果して、酒井玄蕃の兜は「大圓山(だいえんざん)星兜」と称して、兜の吹返しに家紋(三ツ葉葵)が刻されている。

そして、これもまた明珍信家の作なのである。

さすがは玄蕃、最高級ブランド品を持ち合わせているものだ。

兜の姿は、法性兜をベーシックにしたもので、獅子頭の前立ても同じ、デザインフォルムも同じである。(残念ながら写真はない。酒田市の「松山文化伝承館」で展示されている)

玄蕃の鎧は、櫛引町(現・鶴岡市)黒川の「春日神社⛩️」に奉納されている。

ただ、戊辰戦争のときに玄蕃がこの鎧兜を着用したかどうかは定かではない。

 

 

__ 最後に、

司馬遼太郎がそのライフワーク『街道をゆく』で、いよいよ東北編に着手しようというときに、本当は庄内地方から書きたかったのだが、どうにも庄内が描けないので、その言い訳を長々と書き記して、ついにあきらめて秋田県から執筆している。

実に正直な司馬遼太郎であり、その直感は正しかったと私は思う。(そうだよなあと私も溜め息をついた)

その言い訳がすこぶる傑作で、庄内というものをよく表しているので引用しておきたい。

 

『街道をゆく』29巻、「秋田県散歩」の冒頭の見出し「東北の一印象」より

> そういう東北へゆく。

どこへゆくべきかと地図をひろげてみたが、なかなか心が決まらない。

ただ、気になる土地がある。
庄内である。
都市の名でいえば、鶴岡市と酒田市になる。旧藩でいえば庄内藩(酒井家十七万石)の領域である。ここは、他の山形県とも、東北一般とも、気風や文化を異にしている。
庄内は東北だったろうか、ときに考えこんでしまうことがある。
最上川の沖積平野がひろいというだけでなく、さらには対馬暖流のために温暖であるというだけではなく、文化や経済の上で重要な江戸期の日本海交易のために、

上方文化の滲透度が高かった。

その上、有力な諸代藩であるために江戸文化を精密にうけている上に、

東北特有の封建身分制の意識もつよい。


いわば上方、江戸、東北という三つの潮目(しおめ)になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。
この『街道をゆく』を書きはじめたときから、庄内へゆくことを考えていた。が、自分の不勉強におびえて、いまだに果たせずにいる。

 

このところ、この紀行の係がかわった。藤谷宏樹氏から、若い浅井聡氏になったのだが、このひととどこへゆこうかなと話しあっているうちに、

「庄内」

ときめた。が、数日経って、どうもまだ自信がないと思い、庄内も津軽もあとだ、と浅井氏に言いなおし、広大な秋田県地図を撫でつつ、

「ここにしましょう」

といった。べつに理由はない。

古代以来、一大水田地帯だったし、江戸期には杉の大森林と鉱山のおかげでゆたかでもあって、他の東北にくらべると、いわば歴史がおだやかに流れつづけてきた県である。

おそらく気分をのびやかにさせてくれるにちがいない、とおもったのである。

 

…… 末尾に「庄内も津軽もあとだ」と言った意味は、

「東北の一印象」の冒頭でこう云っているからだ。

> ひさしぶりに東北の山河や海をみたいとおもったが、どこへゆくというあてはない。

津軽は、かるがるとした気持ではゆけそうにない。

 

…… つまり、厄介な庄内と津軽は後回しにすると云う意味なのである。

私は、司馬遼太郎に高く評価されているようで嬉しかった。司馬の史観が精緻なのに今更ながら驚いた。

庄内に半世紀住んでいるが、わたしもいまだに皆目分からない土地柄ですよ。

山形県の内陸部(最上義光公と近江商人の影響)とも、秋田県羽前地方とも、はっきりと異なる風土である。

わたしは、上掲の司馬遼太郎の指摘の外に、西暦700年代に渤海国から庄内に一千人規模の移住者がいたという史実にも深く関係すると考えている。(庄内町の狩川にある小野塚のタタラ製鉄集落が怪しい)

司馬が「上方、江戸、東北という三つの潮目(しおめ)になるというめずらしい場所だけに、人智の点だけでいっても、その発達がきわだっている。」と言っているのは、西郷さんとの付き合いを言っていると解釈する人が多いのだが…… 

私は、司馬の著した清河八郎についての中編『奇妙なり八郎』で、よく書き切れなかった経験を踏まえての尻込みだったのではないかと思う。

「回天倡始、維新の魁」といわれる清河八郎が、勅状を賜わった結果、500人規模の浪士を動かせる段階にまで到達したというのに、行動に打って出ることを何故か躊躇い、暗殺者の忍び寄るに任せた、あるいはそれを待ち望んだような素振りのあったことに説明をつけられなかった。(おそらく幼時の、近しい村民が自分の行動によって斬首に追い込まれたことへのトラウマに依るのではないかと愚考する)

▼ 関連記事リンク   《玉断》 庄内人らしく〜 回天の魁、 ド不敵なニート 「清河八郎」

それは、板倉勝静(老中首座、松平定信の孫)の述懐「奇妙なり、八郎」をタイトルにしていることからも窺える。

大阪人でジャーナリストだった司馬遼太郎は、東北人に特有の引っ込み思案や天然の純朴さの如きものについては、把握・共有し切れないところがあったのではあるまいか?

まして田舎の商家(豪農にして造り酒屋)の長男で、武士ではなく郷士であってみれば、庄内藩における微妙な立場もあり、尚更分かりにくかろう。

清河八郎の庄内人らしいエピソードも紹介しておこう。

 

ひとりは、清河八郎の実家・齋藤家のご子孫(八郎の妹御のご子孫)、フランス文学界の大御所だった齋藤磯雄の八郎観である。

文壇では豪傑として鳴らした御仁であるらしい。

[※  澁澤龍彦『日本作家論集成(上・下)』では、「齋藤磯雄」の一章を設けるほどに尊敬していた。二人はしかし相見えることはなかった。澁澤は「会っておくべきだった」と酷く後悔なさっていた。例えば齋藤磯雄が、ラ・ロシュフコオ『箴言録』を訳してしまったが故に、後進が恐れて新訳を出せなかったほどに、圧倒的な翻訳力(詩的な調べも実現した)で知られていたらしい。酒田市の図書館に、『ヴィリエ・ド・リラダン全集』(齋藤磯雄全訳、三島由紀夫から激賞される)が所蔵されている。]

「刻苦 自ラ 純情」

といふ八郎の感懐(安政3年作、『秋風吟』より)がある。

奉母西遊草を読み了った者は先づ、この語の空しからざるを覚えるであろう。

八郎は断じて、稗史野乗劇小説映画テレビに見るやうな、幕末の風雲に乗じた粗放の一豪傑ではない。

八郎の変幻自在な行動の由って来るところは遥かに世俗の視野を超えた彼方にある。

[※  東洋文庫『西遊草』清河八郎旅中記(小山松勝一郎編訳)の’ (齋藤磯雄)より]

 

 

 

八郎の人間性の特質は、豪放な一面、多年心にかけていた奉母旅行を実現し、それを克明に記録したところの濃やかな愛情である。

[※ 私注;いつもは漢文で日記をつける八郎であったが、『西遊草』は母が後日読み味わえるように和文で筆記した]

宮島(広島の厳島神社)は聞きしにまさる見事なりと、母の喜びしに、吾これまで遠くいざなひ来たりし益ありと心に喜び、別して酔ひをなしぬ(五月十九日)

となるように、母の喜びを我が喜びとする八郎の姿は実に尊いものである。

> この旅行中、八郎は実によく人に慕われた。

八郎は「愛情の人」

八郎の人間尊重の精神を挙げておかなければならない。

・下婢に帰らる(四月八日)

・馬方話されき(四月二十一日)

・野天は語られき(五月二十九日)

というような言葉の端々にそれが窺われるのである。

[※東洋文庫『西遊草』清河八郎旅中記(小山松勝一郎編訳)の解説’ (小山松勝一郎)より]

 

文武両道の私塾を開くほどに出来た清河八郎の、「易」を中心軸においた漢学のレベルは、東大大学院並みの教養がなければ読み解けない難解さであるそうだ。(そのために、未解読の文献が膨大にある)家紋も易の八卦紋を使うくらい凝っている。

幕末最強の武力を誇った庄内藩も、薩長中心の正史からは抹殺されている。まったくもって、西郷さんの「王道」に藩を挙げて歓喜したり、西南戦争には加担しなかったりと、幕末明治の庄内藩は傍目から見れば支離滅裂である。(内実は、士道の筋が通っている)

司馬遼太郎はまた、庄内人のすこぶる旺盛な批判精神にも身構えたことであろう。まるで王者の如く威風堂々とまくしたてる処があるからなあ。(大川周明、石原莞爾、最近では渡部昇一や佐高信もそうであろう)

『街道をゆく』では、最後まで「庄内」を書くことはなかった。

司馬遼太郎はつくづく慧眼だと思ったことだった。

      _________玉の海草