『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

《玉断》 西郷さん随想〜 意外に武闘派の軍師

__ つれづれに書き綴った、西郷さんへの思いを、今回足らざる処は加筆して、まとめてみることにした。

 

●  最高尊敬語としての「さん」付け

[2015-01-16 23:42:03 | 玉の海]

私も「神さん」と親しみをこめてお呼びしていますが

最初にこの云い方しているのを見たのは、出口の王仁さんの著作だったかと思います

あー、この呼び方でいいのネ♪と、にんまりしました

私は二十歳頃、大阪で3年間暮らしています

関西の方々の「さん」にこめる敬意は見聞きして知っていました

京都びとは、畏れ多くも「天ちゃん」とまで言われるとか

大阪びとも「太閤さん(はん)」や「聖徳太子はん」は言われますし

弘法大師は、全国的に「お大師さん」です

他にも「一休さん」「良寛さん」「西郷さん」は全国区ですネ

これ、「様」じゃなくて、敢えて「さん」を遣うところに妙味があるのです

いわば、安易に「棚上げ」して崇拝しないのだと思います

平伏して景仰することに、なにか嘘があるからじゃないか知らん

それは、自身の真心とはちょっと違ってたりするものだからです

多少、不敬のきらいはあるかも知れません

しかし、二十歳頃の私は「キリストは友だち」だと

キャプテン翼の「ボールは友だち」と同じレベルで感じておりました

神様は神さまであるのですが

「ご利益(りやく)」信仰を求めているわけではないので

ある種距離をおいて、

ある種対等感を抱いて(そんな心ある背伸びには神さまもご寛容なはずとの確信めいた信頼感)…

なおかつ、呼び捨てに出来るほど自分の力量がないことを重々承知しているので

気さくに「神さん」とお呼び申し上げているのです

「さん」付けの極めて特殊な事例であり、分類すれば「最高敬語」とゆーことになりましょー

なぜなら、情緒ゆたかな日本人が、「さま」とゆー尊敬表現がありながら、敢えて「さん」付けする歴史上の偉人や対象は

極めて異例だからです

それは、畏敬を超えて、限りない親しみや愛情を抱かざるを得ない処にまで至った真情・真心だと私は思います

「お天道さん」なんかは、いい例です

いたずらに、別格扱いや聖別するのも考えものです

たんたんと、好きであり信仰しているのならば

「神さん」でもゆるされるかなと自分なんかは思っています

 

西郷さんは、戊辰戦争で最後まで抵抗した幕府軍の雄・荘内(庄内)藩に対して 王道的な寛大な処置を以ってあたって下さった、われらが庄内の大恩人でもある

神儒仏()に通暁された素誠の御仁ゆえ、古しえの聖賢に倣い、語録や著作をものしていないが

唯一遺っているのが、庄内藩士が鹿児島まで訪ねて聞き書きしたものを編集した『南洲翁遺訓』である

*- 『隆盛』は戸籍登録時に誤って記されたもので本名ではないため、庄内では号・南洲をもって 敬慕してお呼びしている、因みに本名は「隆永」だと思われる(荘内藩中老・菅実秀へ、別れ際揮毫なされた書の署名が「隆永」となっている為)

 

●  西郷さんの漢詩感懐の一節に、

『幾たびか辛酸を歴()

志始めて堅し、

丈夫(ジョウフ)玉砕して

甎全(センゼン)を愧() *甎全-形の整った無傷の瓦のまったき様

 

● 明治人の土性骨

[2009-03-11 23:23:37 | 玉ノ海]

先達って、福岡のぉ医者さんと話す機会がありましてなんでも、玄洋社が近年、なくなったそーですネ

[※  「玄洋社記念館」は、平成205月末に閉館する。]

頭山満翁の知性については、表立って話題になりませんが、が漢学がよく出来たと聞きます

[※  高場乱(たかばおさむ)女史の「興志塾」で塾頭をつとめる程だった]

天意なのか、西南の役の砌りは牢獄に囚われてあり、出所後すぐに訪った西郷家には、既に主は亡く後を預かっていた川口雪蓬(書家)より、

西郷さん御愛蔵本、陽明学者・大塩中齋(平八郎)『洗心洞箚記』(せんしんどうさっき)を借り受けて去ったとか

あんまり返さないんで、のちに厳しく督促されてるのが可笑しいですけどネ

碩学・大塩中斎の本を参考書もなく、懐に入れて歩いて、深く読み込むのだから、相当に学のあった仁です。

はだか丸腰で、虎のいる檻に入る― 頭山満・中村天風両翁は、それが出来た御方です

天風が、カンチェンジュンガの聖者・カリアッパ師から伝授された秘伝の調息法「クンバハカ」に、異議を申し立て承認をうけた藤平光一(合気道)師や、同じく植芝盛平・中村天風両師の薫陶をうけた多田宏師などのお弟子さん方が、ポツポツ活躍し始めてるので、楽しみではあります

頭脳と指先ばかし発達させた、人間的に異常(奇形)なひとが増えている氣がします

基礎体力と胆力は、大事ですネ♪

 

●   「天下後世まで信仰悦服せらるゝものは、只是れ一箇の眞誠なり。

…()…

誠篤ければ、縦令當時知る人無くとも、後世必ず知己あるべし。」(西郷南洲翁)

知己を百年の後に待つは大丈夫のことじゃ。

一時は暗雲に閉ざされても、人の真心から為した仕事は必ず光明を放つ時が来るものじゃ。

近頃では、こんな血誠男子はまことに少なくなった。」(頭山立雲翁=頭山満)

 

●  > NHKの世論調査で、今でも西郷は鹿児島県人に人気が絶大に高く、年長者になるほど神格化されているほど。県民性の本では

「鹿児島県人に、西郷と黒豚の悪口を言ったら、生麦事件のイギリス人みたいな目にあう」

とまで書かれている。

>西郷菊次郎(京都市市長) 「今も忘れません。父の眼は全体に大きい方で、それがまた【黒眼勝ち】で、それこそ怖い眼でした。眼だけは確かに他人と異なってました。ですから父に接する人は、誰でも両手を畳についたきりで頭をあげて仰ぎ見得なかったようです。私がはじめて父に伴われて東京に参りました時、出迎えられた元老の誰彼も、矢張同様に頭をあげられませんでした」

>アーネスト・サトウ 「彼は巨大な【黒ダイヤモンド】のように光った眼を所有して居った。そしてたまたま口を開くと、何ともいえぬ愛嬌がこぼれ親しみがあった」

…… 「情の人」と慕われる西郷さんの、詞藻豊かに湛える、潤いのある つぶらな眼差しについては、

庄内藩士の画いた一幅の肖像画が、その風韻をよく今に伝えている

ネットで、西郷隆盛 石川静正で検索して頂き、是非広く皆さんからご覧になっていただきたいものだなと切に思う

 

●  皇道大本の王仁さんの対談記事(頭山満翁との)を引用します

[* 雑誌『キング』1935年(昭和10)5月号掲載、旧仮名遣いはそのまま ]

> 記者:先生の「偉いな」と御思ひのひとは。

出口(王仁さん):西郷南洲(西郷隆盛の雅号)だけ。その他は皆同じやうな人ですな。

記者:西郷さんのどんなところが‥‥

出口:何となく好きです。

あの城山で、自分が戦争に負けて切腹するといふ場合にありながら、

官軍の兵隊が自分達に勝ったのを見て、これで日本は安心だと言うた大きい心持。

記者:偉くなるといふことには『運』も関係して居りませうか。

出口: 運とは、運ぶといふこと。

結局自分の働きがないことには何にも出来ない。

 

‥‥ 王仁さん当時六十五歳のときの縦横無尽の対談

西郷さんを「南洲」とあえてお呼びするのは、「隆盛」は親父さんの名前を間違って戸籍登録してしまったものだからです

西郷家は、南朝の名門・菊池一族の御血筋で、本名は「隆永」とお聞きします

 

 

『人を相手にせず、天を相手にせよ。

天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。』-南洲翁遺訓・第25-

西郷さんです

すべての人に同じ態度で接し、すべてを自分の肚に納めて単純明快、謙虚すぎるほどの姿勢

 

●> 「西郷隆盛」

[2009-07-14 20:33:21 | 網麿]

まず網麿は歴史上の人物と認識してますので今回は敬称は略させて頂きます。確かに西郷隆盛は維新の功労者ですが、大悪党でもあると思っております。

例えば鳥羽伏見の戦の原因は、西郷が徳川家(この時点で大政奉還により幕府は消滅)を挑発して戦に持ち込もうと、三田の薩摩藩邸にいる腹心の益満休之助命じ、相楽総三が浪士たちを指揮実行に移した行為は、江戸市中で強盗など乱暴狼藉の限りを尽くしたことは紛れもない事実。

その為、業を煮やした市中取締役である庄内藩などが薩摩藩邸を焼き討ちの挙に出た。その卑劣な行為に大阪に集結してた徳川家家臣及び諸将は、薩長打つべしと慶喜を動かし鳥羽伏見の戦へと。これが無ければあたら多くの血を流さず穏便に明治維新を迎えられた筈。

また西郷は江戸から逃げ延びてきた相楽総三に再び命じ、いわゆる赤報隊により官軍に付けば年貢半額になると道々で布告させ、民衆を味方に付けることに成功したが、後から官軍首脳はやはり年貢半額は実現不能と判断し、赤報隊に対して偽官軍と決め付け、相楽も処刑。これら西郷たちのした行為は武士道にあるまじき行為だと思います。

 

(拙稿)>こんなにも本格的な批判を頂戴して、望外の喜びであります♪

あなたの仰る通りであるのみならず

江戸城を灰燼に帰するお覚悟で東征大総督(熾仁親王)の参謀長として臨んだ大西郷であったが、迎え撃つ勝陣営は江戸市中を火の海と化して抗戦する構えであったと聞く

ともに、無辜の民草の犠牲を厭わない処は、第六天魔王に劣らぬ大悪党である

西郷さんは、見かけによらず軍略・策謀に長けた一面がおありで、武闘派の顔もお持ちである

大義の為に手段を択ばぬ『非情』も体得されている― 自分の為に、また大義の為に死んだ仲間が沢山いらしたのだから、無理からぬ処であろー

そんな事ども一切合切含めて敬愛している次第である

鉄砲玉が三人いれば、組長に成れると云われているそーだがあの時代、西郷さんの為なら死んでもよいと本氣で念っていた漢たちは、一万人はくだるまい

悪鬼羅刹に一万もの眷属が従いてゆくものだろーか...

 

大霊覚者だと云う明治大帝のお目がねに叶った人傑は少ない

歿後、賊軍の首謀者たる汚名を被っていた時期ですら明天子は、彼の嫡男・菊次郎を御手元に置こーとまでされている

明治22年、憲法発布の砌り満を持して明治維新は西郷なくして成らなかったと賊名を取り除いたのみならず、正三位の叙勲までされている

 

網麿さんの観方には全面的に同意はするものの

真実は、人によって多様な現れを観せるもので、単純に一つなのでは決してないと思う

まさか、こんな事を綴る日が来よーとは思いも寄らなかった

重ねて御礼を申す

        _________玉の海草

 

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