『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

《玉断》 西郷さん随想〜 庄内藩秘蔵・西郷さんの肖像画

戊辰戦争の折に、鳥海山を挟んで、庄内藩と秋田藩が戦ったわけですが、

うち(旧・八幡町)の升田地区と、秋田県側の矢島町の百宅(ももやけ)地区とは、戦役後婚儀が結ばれた例があります

これは、戦さにあたって庄内藩士が「礼」を尽くしたこと(軍規を守り、略奪狼藉等がなかった)が遠因となっているよーです

庄内藩は、戦闘で敗北した末に降伏したわけではありません

各所で勇猛に戦い、実際強かったと伝え聞いております

そんな士族の氣概と、かの西郷さんのご鴻恩とが相俟って、若干他の奥羽越列藩同盟のご家中とは薩長藩閥政府に対して温度差があるやも知れません

恵まれていたと云えるかと思います

 

しかし、すべては西郷さんの下野で水泡に帰してしまいましたが

うちの殿様のご兄弟は、あの当時、独逸に78年も留学して法律と軍事を学びながら、西郷さんのおはさぬ中央に留まることを潔しとせず、旧藩士共々こぞって鶴岡に帰って仕舞われたのです

あのままいけば、山形県庁は鶴岡市だったはずです

 

● 龍馬と西郷(せご)どん

[2010-05-12 07:30:42 | re; 玉の海]

西郷さんには、一枚の写真も遺っていない

これは、肖像写真好きの龍馬が非業の死を遂げたことを悼み、妻のおりょうさんと互いに生涯写真は撮るまいと約束したと伝え聞く

維新が成った後も、その胸に志半ばで逝った志士たちを抱いて生きた西郷さんであったから

おりょうさんは、晩年になって、たった一枚の写真を撮っているが

その折に、西郷さんとのその約束について語ったと云う

巷に出回っている、遊女風の小股の切れ上がったいい女風の、若い女性の肖像写真は、おりょうさんの写真ではないとの事

 

鹿児島の西郷さんの自宅に逗留したこともある龍馬は、変名として「西郷伊三郎」を名乗ったこともある

そんな龍馬の西郷評は

>龍馬は初めて西郷と会った時の感想を、師の勝海舟に次のように語りました。

「西郷というやつは、わからぬやつでした。

釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。

ただ、その鐘をつく撞木が小さかったのが残念でした」

(*Wikipediaより)

>坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いた際、自宅は雨洩りがしていた。

夫人の糸子が「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理してほしい」と言ったところ、

西郷は「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と叱ったため、隣室で休んでいた龍馬は感心したという。(*)

 

一方、龍馬はどのよーに観られていたかとゆーと、

>西郷隆盛

「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」

>勝海舟

「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。

その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)

-*共にWikiより引用-

 

龍馬の号は「自然堂(じねんどう)」、西郷さんの語録である『南洲翁遺訓』には、こんな言葉がある

 

敬天愛人

「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。

天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」

 

大霊覚者であられたと云う明治天皇に特に愛された西郷さんや神道無念流の達人・桂小五郎のお目がねに叶ったからこそ、

薩長同盟は成った

命懸けの志士たちの眼は節穴ではない、そこには私心がないからだ

 

●   酒田の南洲神社の祭の式典で、荘内藩・酒井の殿様がお配りになった資料より引用する

>維新の大業に、一身の出世のために働いたり、大将の位がなつかしい人間であったなら、

私学校徒中のあばれん坊と同じ運命をたどるような馬鹿なまねはせず、一将功成りて万骨枯るという世のならわしに従ったであろう。

しかしそれが出来なかったところに、月照と抱合って海に身を投じた西郷、

島津久光の怒にふれて島流しにされた西郷、

大島の島民を愛して慈父として慕われた西郷、

上野にたてこもった彰義隊の鎮圧がはかどらず、指揮権を要求した大村益次郎に、藩閥意識の強い同郷薩人の反対を無視して譲り、自分は一兵として甘んじて戦った西郷、

今日のアンチ西郷論者が、西郷を強盗の親分として罵ったのは維新前の江戸市中の浪人の暴動事件であるが、

その取締り藩として、西郷の行動を最もよく知っていた筈の庄内藩の藩主や家老達が千里を遠しとせずして、鹿児島に来て、西郷のおしえを受けたいと望み私学校に入学する希望を湧かせた不思議な校長西郷、

江戸城の無血明渡しを成就させた西郷、

最後にあばれん坊の私学校徒に鬱憤を晴らさせてやるために、維新第一の功労者の名誉も、陸軍大将の位も古わらじの様に捨てて国賊の汚名をきせられて弁解もせずに此世を去り、今日尚彼の動機の是非を世人に論議させている悲劇の西郷があったのである。

今日の利口な人々は、利害を超越したこんな西郷を大馬鹿者であったと思うであろう。

(*坂本盛秋著『福沢諭吉の歴史的証言と西郷隆盛の死』より)

 

大馬鹿者で結構!

だからこそ好きなのである

 

●  「独」という言葉は、

「もともと神明に対する人間の内心の実をいうのであって、必ずしも他人と相対する自分をいうのではない」

[※  赤塚忠『大学・中庸』明治書院-より]

つまり「独」というのは、もともとは、いわば

一人ひとりの心の内にある神性をいうのです

朱子学は、本来、人は、そのような「本然の性」をもっていると説きます

 

この文章は、皇學館大学の松浦光修さんの書かれた『【新訳】南洲翁遺訓』からの引用です

日本では学問といえば、長い間それは「儒学」を指しました

そんな伝統の下に育った吉田松陰もまた

「学問というのは私たちが、人としてどう生きるのか、という知恵を学ぶことである」(松下村塾記)

と云われているほどです現代の吾々の抱く、「学」に対する認識とは大きく隔たりがあります

脳における知性や理論だけのものではなかったのです

そーゆー意味では、(同書によると)西郷さんが、楠木正成のことを「真儒(=本物の儒学者)と呼び、特別な尊敬を抱いていたことも分かるよーな氣がします

日本では、儒教は導入することなく儒学だけを受け容れた経緯があります

 

●  たしか、西郷さんも

月参りで参拝した神社の境内で、友人たちの喧嘩の仲裁に割って入って

腕の腱を斬られ、剣術の道を諦めたのでした

至極残念な、武辺の盛んな鹿児島(薩摩)では至って不幸なアクシデントではあったのだが

それよりなにより、あの西郷さんも『月参り』を欠かさなかったとゆーことの方に心惹かれた

やはり、そーゆーもんなんだなと独り合点がいったことだった

 

●  『南洲翁遺訓』に関して、

頭山満翁(中村天風の師)は「百年や二百年で色褪せるようなことは、西郷先生は云っておられない」と感服しておられたが

 

●  真空な人 ~あるものはみな吹き晴らえ大空の~

[2012-09-05 02:09:58 | 玉の海]

きょうの記事にあった、自分のことを後回しにする人とは、無私な人であり

功利的に考えても、頭に戴いたとしてなんら圧迫感を感じないので、子分になっても損はしない人でもあります

>自分の中に、2%ほどの【無私なる真空】を作った人であり、その無私なる真空に人が引きつけられた。

これは、司馬遼太郎が西郷さんについて語った注目すべき発言ですが

実際に会ってみないと分からない、数少ない人物とも言っています

司馬は、魅力ある人物とはどこか真空の部分があって、それが人々を惹き付けるとよく云われます

>台風の目のように、西郷は【真空】でありました。皆が懸命にその周りで旋回しておりました。

(*『翔ぶが如く』文春文庫-より)

 

自然界は、何故か「真空」を嫌います

純粋なる真空を阻止せんと、あらゆる手段で混ぜ物(混沌・カオス)を造り出そーとしているかのよーです

不純物が、のべつまくなしに侵入して行きます

現代科学をもってしても、無重力状態を現出させるのは困難な業だと聞きます

 

人間界においても、それは云えるのでしょー

なぜか、声を掛けたくなる、何かして上げたくなる磁力のある人は人気者になります

「なにも考えていない」人は、なにを考えているか判らない謎めいた人との印象を与え

心が読めない、大器量人と勝手に誤解され、高い評価を得てしまったりします

それは、読めないはずですよ~ なんも考えていないんだから♪

いつの時代も、茫洋として捉え処のない人物は、人々に可能性を感じさせるが故に、広く好まれるよーです

「大賢は大愚に似たり」は、庶民の鋭い直感から出た言葉だと思います

 

西郷さんの従兄弟で、面立ちも似ておられた大山巌は、自分自身のことをこー云われてます

「私(大山)は、何も知らない人間の仲間です。

何も知らなければこそ、

参謀総長にもなり、陸軍大臣にもなり、大警視にもなり

はなはだしきは、文部大臣にさえなりました。

【何も知りませんから、どんなところにも向きます】

まことに重宝な人間でございます」

これなんか、開き直っているよーでいて、いたって謙虚でもあります

しかし、真空な人とは一面孤独な人でもあります

人気者で、人々が寄り集まっては来るが

なかなか理解されない恨みはあるでしょー

そこで自らを支えるのは、ご先祖と内なる神です

西郷さんも、氏神さんへの月参りを欠かさなかった御方だと聞きました

今月924日が祥月命日です

 

●  西郷さん

(*この「さん」付けは、日本人が一休さんや西郷さんと呼ぶ時の最高最愛敬語として遣っている)

 

●  謎の西郷さん

[2014-02-11 18:56:04 | 玉の海]

西郷さんは、庄内・酒井藩および(山形県)庄内の人々にとっては大恩人であり

庄内藩士の子孫の方々からは、いまでも「西郷先生」と呼ばれ、敬慕され続けています

庄内藩が、会津のような惨劇を免れたのは

ひとえに西郷さん御自らのご尽力とご配慮、武士道に則った謙虚なご姿勢の賜物であったのです

荘内南洲神社の、自称氏子たる私にとりましても、今回のRさんの詳細なお見立ては大変参考になりました

真事にありがとう御座います

折よく、荘内南洲神社の展示室にも、荘内藩士・石川静正翁が描かれた西郷さんの肖像画が額装でお目見えした処です

西郷さんに直接お目にかかって肖像画をものした画家は4人しかいないと云われています

郷土の先人・石川翁は、その中のお一人です

原画はキャンパス地に画かれた油性画(?)みたいな精巧なもので

現在、横浜にお住まいになる、石川翁のご子孫の方が所蔵されています

うちの南洲神社の肖像画は、精密な写真複製画です

最近出版された、加治将一『西郷の貌』

私も面白く読みましたが、その中にも石川翁の肖像画は紹介されていません(*取材で酒田に来られたのに、当時の小野寺理事長が見せ損ねたらしい)

おそらく、荘内藩士の一部しか見たことはなかったでしょう。

実に、深い色を湛えた巨きな眼差しと温かな慈顔

私も初見で、一氣に西郷さんの熱心なファンになった位です♪

[※ 現在、ネットで「西郷隆盛  石川静正」で検索するとご覧になれます]

公益財団法人「荘内南洲会」所蔵、精密写真複製画】

 

これ直かに見たら、正味吃驚しますよ!

いい男です、俳優の横内正(水戸黄門の初代格さん役)を優しくしたよーな、知性的で厚みのある雰囲気をお持ちです

Rさんのリーディングは、いつの頃の西郷さんなのか分かりませんが(黒豚がお好きで、上野の銅像の如く肥満でらした時期も確かにあるやに仄聞します)…

やはり、つねに鍛錬されておいでだったのだなと嬉しく思いました

文学者にしてもそーですが、牢屋暮らしを経験された方々は、「自由」に対する姿勢が違いますネ

精神の自由度が越格なのです

近世にあっても、謎のおおき西郷さん

ご自分の胸だけに納めて、たんたんと逝かれました

 

●  志を心中に立てる

[2014-04-20 21:52:55 | 玉の海]

西郷さんも云われていたのだが

>道に志す者は、偉業を貴ばぬものなり。

(*『南洲翁遺訓』第三十二章より)

つづけて西郷さんは、「独り慎む」とゆーことを司馬光を例にして挙げられている

>【慎独】

『大学』(伝六章)に、

「君子は必ず其の独りを慎む」とある。

独りで居って誰も見ていない時でも言行を慎み、

自らを欺かないようにする。

司馬温公は、『資治通鑑』を編んだ、中国北宋時代の儒学者・歴史家・大政治家であり、「至誠」の人としてよく知られていた

一番身近な、自分の密かな心中のことに最も気をつけた人である

誠であるとは、真言を口にして真事(神事)をおこなうことでもあろーか?

よい心指しを持つことは、なにも大事・偉業を成すことを目的とするものではなく

身の回りの、ささいな日常茶飯事にあっても

自分を、自分の良心(内在神)を欺かないことであろー

心中の海の一滴、細胞の素粒子・量子の一片から、体内菌の微細な一糸から、「立志」は起こり

その継続努力が【志に殉ずる】とゆーことである

このフレーズは、結果の良し悪しには触れていない

本質とは関係ないからである

そのよーにやり続けることこそが大事なのであり、その真事を称えた言葉なのである

 

●  “ Michael・ミカエル=スサノオ を継ぐ者 ”

[2014-09-23 01:46:55 | 玉の海]

今日、彼岸の中日の翌日は、西郷さんのご命日である

介錯を頼み自刃される前に、遥か皇居の方角へ向かい奉り、お別れの一拜をされたとは聞いているが

骨の髄まで南朝方の西郷さんが、それほどまでにお慕い申し上げた明治天皇は、お確かに西郷さんの遺志を継いでくださったように思う

つまり、道義にもとづいた日本国造りである

この御志は、たぶん継承されてはいるだろーと信じたかった

幾人かは思い当たる

が、決定的に西郷さんの後継者と呼べる人物は意識できずに来た

ところが最近になって

ゴーマニズム宣言” のよしりん(小林よしのり)が、

『大東亜論』なる分厚い漫画本を出版された

今では日本右翼の始祖として目されている、頭山満が主人公であった

(*「国士」ではあるが、実際は右翼のイメージとは程遠い)

ひきこまれる様に熟読してみると(よしりんの予習振りは凄い!)…

「あっ、このひとだったんだ」と腑に落ちた

頭山翁は、西南戦争に駆けつけられなかった侍、死にぞこなった士族である

捕縛され牢屋に入っていたからだ

さて、出獄してみると日本最後の内戦は終焉していた

彼は、しようことなしに鹿児島にある西郷さんのご自宅を訪ねる(翁は福岡在住)

そこで、西郷さんの書き込みのある愛読本『洗心洞剳記』(大塩平八郎著)を借り受け、長い時間をかけ拳々服膺することになる

頭山翁は、塾頭もなさったくらいだから、漢学はよく出来た

そして、それ以後その通りに一生を送られたのだろー

そう観ると、私なりに辻褄が合う

よしりんの本の帯にあったよーに、頭山満が西郷さんを継ぐ者であったのだ

立雲・頭山満が『南洲翁遺訓』について口述された書籍(雑賀鹿野・編集)は、私も感歎して既読していた

もはや絶版になったが、最近に『大西郷遺訓』として復刻版が成った

よしりんは、最近では国民的アイドル・AKBの評論で名高い

彼の出演された、AKB総選挙の感想戦なるTV番組を観ていて

忽然と【常若】を覚った♪

私らの世代は、彼のデビュー作『東大一直線』で、自らの受験戦争を笑い、励まされた恩が根底にある

彼の尽きることのない情熱には、純粋な「信」を懐いているのだ

いままた手強く、眼前に現れた彼の勇姿を芯から喜んでいる

            _________玉の海草

 

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