__ 梅雨前線の線状降水帯、記録的な大雨に晒されている地方の皆さんに、
お見舞い申し上げます
こちら山形県でも、最上川が氾濫するとエライことになるんです
最上川は、山形県内だけを流れている河で全長229kmもあります(落差5m以上の滝の数は230箇所)
最上川水系の流域面積は、県土の76%を占めていて、そこには県民の約80%の人々が暮らす
文字どおり、山形県の母なる大河なのである
その「最上川」が、平安末期の和歌の世界では物凄く人気があったらしく、意外の感に打たれたものである
> 平安時代の都人 (みやこびと) にとって、みちのくは憧れの地だった。
まして出羽の地に悠々と流れる大河、最上川は、その名の通り、最上の、最高の、大河だった。
そうした最上川の名を崇徳上皇の隠語にする、したということは敬い称えることだったのだと、風太郎は観る。
[※ 林崎風太郎『無刀の芭蕉』より]
〜本の帯より 推薦の言葉「素人ゆえの奇想天外さ」
芭蕉翁菩提寺・義仲寺前執事 永井輝雄
依然から「芭蕉の句には何かが隠されている」とは聞いていたが、この本を読んでみると、途方もない展開になっている。
保元の乱に敗れ、讃岐に配流された崇徳上皇の呪いが「武士の世」を招いたという歴史の裏舞台。「言の葉」で上皇の御霊を願う西行、芭蕉、その究極の地は出羽・山形だったー。結果、「奥の細道」200年後、芭蕉が願った「天子さまの世」は復活したーというストーリー。
おそらく、これまでの芭蕉論にはない、全く新しい世界を描いている。素人論ではあるが、壮大な歴史推理小説として一読すら価値はあると思う。いずれにせよ、芭蕉翁への関心を高めるいい機会だ。〜
‥‥ なんと畏れ多くも、崇徳院=最上川ですと〜
だとすれば、山形県民歌『 御歌 最上川 』は、西行法師から〜松尾芭蕉〜昭和天皇へと連綿と受け継がれた、崇徳院を御慰め申し上げる観音行の一環を、山形県民が知らず知らずに担っていることになるのではあるまいか?
(wikiより)> あるとき (1141年以降) 西行にゆかりの人物 (藤原俊成説がある) が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ。(『山家集』より)
最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ
《意》:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。
対して西行は次の返歌を詠んだ。
つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて
《意》:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい (私の切なるお願いをおきき届け下さい) 。
‥‥ 『古今和歌集』巻20 東歌 (詠み人知らず) に、
最上河 上れば下る 稲舟の 否にはあらず この月ばかり
とあり、この歌を踏まえて崇徳院が上の御製をお詠みになられたよーである
西行法師が、奥羽へ旅立たれた目的は、憧れの最上川を自分の目でじかに見ることにあったよーだ
西行の息子さんだったかが、西行歿後に現在の山辺町に移住して来て、その子孫の佐藤家がいまもご健在だと聞く
その西行の遺志 (崇徳院のご慰霊) を汲んで、江戸期の芭蕉が「奥の細道」を歩いたとゆーことになろー
崇徳院~西行~芭蕉と繋がる「鎮魂」のラインがあって…
芭蕉は句に「裏俳諧」を秘そませたものと云う
芭蕉没後は、俳諧師としての声価いよいよ高まり、没後百年経って「桃青霊神」の号を授かっている、ついで
1806年には、芭蕉に「飛音 (ひおん) 明神」の神号が下賜され…
1843年の、芭蕉150回忌には「花の本大明神」の神号を朝廷より贈られている
…… 「山形県民の歌」のいわれを紹介する。
“ 広き野を 流れ行けども 最上川
海に入るまで 濁らざりけり ”
> 昭和天皇 (当時は東宮殿下) が大正14年 (1925) 10月14日酒田へ行啓された。
御歌は翌大正15年 (昭和元年・1926年) の歌会始め御題「河水清」に、酒田日和山 (ひよりやま) においての感懐をお示しされたものという。
この御歌は山形県の光栄として、昭和3年酒田市日和山公園に記念碑が建てられ、更に昭和5年、東京音楽学校 (現東京芸大) の島崎赤太郎教授が曲を付け、県民歌として歌われるようになった。
【戦前の話だが、「日本🇯🇵の三大県民歌」として、山形県民歌「最上川」、長野県歌「信濃の国」、秋田県民歌がよく知られていたそうです。山形県では現在、学校では歌われていないようです、現在40代以上の方々しか歌ったことがないかも知れません。昭和天皇の御製ということもあり、けだし名曲だと思います。酒席でアカペラで朗々と唄うのも良いかと存じます ♪】
時を経て、昭和22年8月来県中の昭和天皇に、上山市出身の歌人斎藤茂吉が弟子の結城哀草果 (山形市) とともに短歌について進講した。
その際、茂吉が「うみに入るまでにごらざりけり」の表現について「実際は降雨が続いたりすると、ものすごい流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたようだったというエピソードが残る。
明治大帝は大霊覚者であらせられたと聞くから、そのお孫さんの昭和天皇の霊力もなかなかのものだったに違いあるまい(隔世遺伝)
崇徳院=最上川 の消息も鎮魂の歴史もご存知だったかも知れない
明治天皇が、明治政府を創るにあたって、四国へ崇徳院をお迎えに勅使をつかわされた消息もよくお分かりであられよう
それゆえ、最上川に仮託して、崇徳院の純粋なる大御心をお詠みになったのに、茂吉翁が理路整然と物理現象をいいつのるものだから、龍顔をしかめられたのではありますまいか?
昭和天皇の「最上川」は、百人一首に撰ばれた崇徳院の御製
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」
に対応なさる御歌かと存ずる
同時に、芭蕉の
「暑き日を 海にいれたり 最上川(酒田)」
を承けてもいて……
芭蕉の
「五月雨を あつめて早し 最上川 (大石田)」
も、「瀬を早み」に照応すると観るのは、果たしてうがち過ぎか知らん
ー この昭和天皇御製の山形県民歌は、ほんとうによい唄で口遊むのも気持ちがよい
いまなら、YouTube で聴けるので、ご興味ある向きは是非お聴きになってもらいたい
以上
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