__ わたしの大好きな岩下志麻女史を射止めた、映画監督・篠田正浩が書き下ろした名著『河原者ノススメ』。
これは、エッセイや折々の断片を並べたタレント本とは訳が違う。
まるで文化人類学の学術書のごとき風格を帯びている。
映画監督🎞️って、こんなにまで深い見識と教養を必要とされるものなのかと、やおら感嘆せざるを得ない濃密度の芸能風俗史となっている。
わたしは、藝(能・歌舞伎・武芸・音曲芸すべて)と非日常、つまり無生産者の差別についても、ひとかたならぬ興味があった。
河原者とは、河原、つまり誰の領地でもない特殊な空間に住まう者であり、京の街場には住めない身分であることを示している。
そうした焦点の置き方をして収集した、日本の裏歴史の断片は数々もっているが、それらを網羅して余りある監督の労作だと感じる。
よくぞこれほど調べたものよ…… …… そして何よりも眼差しが優しい。
映画は総合芸術だというが、なるほど映画監督とは一流のアーティストであり研究者であり現場創造者であることに景仰の思いを禁じえない。
【目次】
1. 芸能賤民の運命/ 2. 河原という言葉/ 3. 排除された雑技芸/ 4. 劇的なるもの/ 5.「猿」について/ 6. 漂流する芸能/ 7. 神仏習合の契機/ 8.「翁」について/ 9. 清水坂から五条通りへ/ 10. 白拍子とは何か/ 11. 興行者の誕生/ 12. 歌舞伎と浄瑠璃/ 13. 近松門左衛門/ 14. すまじきものは宮仕え/ 15. 助六誕生/ 16. 東洲斎写楽/ 17. 東海道四谷怪談/ 18. 團十郎追放/ 19. 河原者の終焉
○小見出しをランダムに列挙〜
異形の「代受苦」/ 桂離宮でのらできごと/ 劇場の祖形・壬生狂言/ 「婆沙羅」という混沌/ 物真似芸能の系譜/ 「クグツ」と人形/ 「あそび」の系譜/ 瞽女の霊性/ アルキを止めた放浪者/ 隼人と行基教団/ 北面した現人神/ 卑賤のアジール/ 象徴記号「阿弥」/ 影向の松/ 忌み嫌われた「業病」/ 宿神の激烈と微笑/ 被差別民が宗教と出会う場所/ 坂非人と犬神人/ 牛若丸の霊力を加速させたもの/ 「柿色」の意味/ 両性具有の妖しさ/ 町衆とキリスト教/ 「浮世」と「憂世」/ 竹本義太夫との出会い/ 「景清」と「荒事」/ 坂田藤十郎の写実/ 「ヤツシ」と乾き/ 町奴と旗本奴/ 役者絵に秘められたルサンチマン/ 女形という「型」/ 鶴屋南北の野心/ 河竹新七の絶筆と天覧歌舞伎/ 漂泊の道筋 等々
> 芸能とは、劇的なるものの探求である。(篠田正浩)
お手軽にまとめることが憚られる、隠れた名著なので……
いままでした関連投稿の中で、篠田正浩『河原者ノススメ』から引用させてもらったものを列挙してオマージュとしたい。
🔴 差別化する功罪
こんなことを言うと受け入れられないかも知れないけど……
誰もが差別して生きているんだよ、先祖代々差別して生き延びてきたんだよ。
・自分の体内細胞レベルでいえば、免疫とは「自分」と「異物」との差別化のことである。
ガン細胞は、もともと自分の細胞だから、異物反応はなく、免疫不全に陥る。
・集団レベルでいえば、橘玲のいうように、人間の歴史は150人規模を最大とするコミュニティの歴史である。
つねに、「うちらの集団」と「よそ者集団」との抗争の歴史である。これは今でも遺伝子レベルにまで浸透していて、「こっち(自分の味方)」と「あっち(自分の敵)」に区別して攻撃する習性になって顕現している。
そうした集団内では、目立たなくては存在意義が認められない。現在の企業における、「差別化」による成長戦略と根は一緒なのである。
理屈からいえば、それは「区別」と言われるが「差別」と何ら変わりはない。人種差別にしても「よそ者差別」にしても、始まりはそこに求められる。
都の京都人が、よそ者を差別するところから、坂上田村麻呂が連行した蝦夷のアテルイは、命を取らないという約束を破って、裁判にもかけられずに勝手に処刑された。当時の京都人にとって相容れない異物(異形の者)だったからである。
同様のことが、「山水河原者」へも穢多非人への差別にもあらわれている。
都から遠く離れた東日本には、「血の穢れ」に対する差別はほとんどない。(西日本では、結婚相手の身元を興信所で調べるのが通例であるとか)
ある大女優(ご存命)の叔母さんが歌舞伎の名門(河原崎家)に嫁がれたのだが、桂離宮が特別公開されたときに、受付で氏名を記入していたら、「河原者を入れることはできない」と入場を拒まれたそうである。
また、出雲阿国の映画をつくっていた監督が、四条河原で踊るシーンを撮影するために、700年の歴史を持つ「壬生狂言」(重要無形民族文化財)の保存会に依頼したところ……
うちらの壬生狂言は格式のある伝統芸能であり、河原者の芸能とはわけ違いますとけんもほろろに断られたそうである。
[※ 篠田正浩『河原者ノススメ』より]
現代京都人にも、差別は連綿と受け継がれている。(地元の人に言わせると、洛中のみが京都で、洛外は京都ではないそうだ)
「褒める」のと「貶す」のが、「評価する」という
観点からは同じであるように……
「区別」や「特別待遇」でさえも、「よそ者扱いする」という観点からは、同様に「差別」である。
たとえば、伊勢白山道ブログのコメント欄で、リーマンさんを神使として特別扱いするのも、それは「聖別」という名の「差別」に他ならないのである。
差別という問題は、人間が生きる上で根源的な問題を孕んでいる。
🔴隣の芝生は青い
受け入れるメス性として生まれているのに……
オスを頑なに受け入れないのは、まず第一にメス性(女性)としての自分を受け入れていないからであろう。
昔の女は、個人のしあわせよりも「家」全体のしあわせを願って尽していたように感じるな。
結婚は家同士の結びつきだったからね。
政略結婚で道具としてつかわれたりもしたから、自分の置かれた立場を受け入れていたのだと思う。
また来世のしあわせもちゃんと考えていた。
ここに、イエズス会の宣教師 ルイス・フロイス がローマに送った手記『日欧文化比較』(1585年)を要約したものがある。
> 日本の女は処女の純潔を少しも重んじないし、結婚の妨げにもならない。
ヨーロッパでは財産は夫婦共有だが日本では別々で、時には妻が夫に高利で貸しつける。意のままに離婚ができ、しばしば妻から夫と離婚する。
娘たちは両親に断りなく1日あるいは数日でも一人で出かけ、女は夫に知らせず外出する自由をもっている。堕胎は普通に行なわれ、20回も堕した女がいる。赤子を育てられないと、喉の上に足をのせて56してしまう。
[※ 篠・田正浩の名著『河原者ノススメ 〜死穢と修羅の記憶』より。私注;引用文中の「56」は該当漢字を忌みきらい書き換えた]
女性たちが、こうした奔放な生態を選んだ時代もあったのである。(現代はどうやら戦国時代に似ているようだ)
単なる「男女のロールモデル」では語れない振れ幅があるのである。
選択肢を自由に選べるだけに、現代女性は、みずから進んでその迷いの泥沼に足をつっこんでいるようだ。
オスは何万年も変わらないんですよ、子孫を残したいだけですから、単純なものです。
しかしオスを選んでいるうちに、行き遅れるなんて、なんと贅沢な一生でしょう♪
🔴魁の空也上人
平家の末裔である私は、京の東山、六波羅あたりには親近感が湧く。
清水坂の坂下にひろがる鳥辺野(平安朝の火葬地)、六道の辻(小野篁)、つまりアノ世とコノ世の境、葬送やキヨメを扱った「坂」の土地柄なのである。
戦さ場での死が日常だった平家武士は、ここを本貫の地と定めた。
空也上人は、法然・親鸞に先立つこと200年あまり、皇室のご出自だと云われている。
踊り念仏の始祖であり、一遍が私淑した聖者であるが、六波羅蜜寺の空也上人立像はいかにも異形である。
六体の阿弥陀仏を口から吐き、鹿の角の杖をつき、肩には鹿皮の衣を身につけている。「皮聖」とも呼ばれる。
つまり、殺生を生業とする皮屋(被差別民)と共に在ることを表しているそうだ。
> 藤原摂関政治は朝廷の死穢の禁忌に縛られて死刑執行を停止していた。
弘仁元年(810)の薬子の乱で藤原仲成が処刑されたのを最後に、保元元年(1156)の保元の乱で藤原頼長、源為義、平忠正らの死罪が決行されるまでの
340年あまり、日本では死刑が執行されなかった
のである。死穢のタブーがいかに浸透していたかを知ることができよう。
[※ 篠・田正浩の名著『河原者ノススメ 〜死穢と修羅の記憶』より引用。泉鏡花文学賞受賞作]
…… 朝廷のこうした「穢れ」への恐怖の念は、
来世への強迫じみた不安(実際に釈尊が予言した「末法の世」が到来していた)から生じており、それにつれて殺生する者や「血の穢れ」への禁忌は、はかり知れない程膨れ上がって……
神道的には「穢れ(氣枯れ)」、仏教的には不殺生戒を犯す「破戒」と同一視されて、
異常なまでの「怖れ」が発生して(朝廷貴族は、山で修行もできずに救われない我が身をいかにしたらよいか、切迫つまった恐怖に慄いていた。法然上人はそんな彼らに救済の道を示したので、他宗派の「国師」とは別格の扱いとなっている〜50年毎に諡号する慣例)……
徹底的な差別(人非人扱い)をするようになったことは想像に難くない。
この、死刑が全面禁止🈲された期間(340年間)が長かったことが、近畿圏や西日本での、「部落差別」を決定的なものにした歴史的な経緯ではないかと愚考する。
空也上人はしかし、分け隔てなく、迫害を受けた業病(ハンセン病)を患う者や屠殺業者の中に入って活動なさった。
こうした、念仏行者の積み重ねた功徳があったからこそ、時宗の一遍上人の道行き(踊り念仏の集団行進)では、強盗や性犯罪などが一切なかったという伝承がある。(裏社会や底辺の者たちからも支持されたことを示している)
市井の人々から大いに慕われた空也上人は、はじめて「南無阿弥陀仏」と口に唱える念仏を実践なさったド偉いお方である。
__ 現在の日本では、芸能人は一種のセレブ扱いされ、憧れられている存在である。
能・歌舞伎は、日本を代表する格式ある芸能であるし、役者たちは文化勲章をもらうほどの名士である。
日本婦女子の白メイクは、本来芸者が一目で一般人から判別されるように、芸者みずからが施した「差別化粧」であった。
いまや、ほとんどの女子が、その芸者に課された差別の印である「化粧」を施して生活している。
芸能者は、その化粧を施して、各家庭に「推参」することが許されていた。いわば「芸の押し売り」である。
(「見参」は正式にお目見えすること、「推参」は許しもなく勝手に参上することである)
中世の芸能者は、お国境いを越えて移動することが許されていた。(ヨーロッパ中世🏰のフリーメイソンとよく似ている、特権を持っていた)
そのため能役者でありながら鉱山師であったり山の民・海の民とも近しい間柄であった。(徳川幕府の金山奉行・大久保長安は、一流の鉱山技師でありながら、能の大蔵流の太夫でもあった)
芸を売る者は、特殊な境涯におかれた「人外の民」(納税の義務を負わない、国を跨いでの移動が許可されている)であった。渡来系の人びとが多かったようにも聞く。
忍者や土木事業者(石積みの穴太衆とか、行基に付き従って橋をかけたり治水したりしていた技術者集団)、吉原などの遊廓や任侠の世界もそうであろう……
芸の道は、庶民人気が高かっただけに、日本文化の奥深くまで浸透している。
すべてが「道」になるのが、日本的霊性(日本人の真心)である。
完成がないもの、どこまでも上達するものが「道」である。
藝者とは、極限に挑む者である。
目の肥えた日本では、そんな人が尊敬をうけるのである。
とはいうものの、三國連太郎や成田三樹夫のように、みずから「河原者(かわらもの)」をもって任ずる自覚があってしかるべきであろう。
藝において、差別と聖別の境いが分明ならざるものとなっていく。
そうした自然な謙虚さが名人の証しともなるのだと思う。
_________玉の海草
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