『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

 岡本太郎と言葉を交した〜 魂のイニシエーション

__ 若くてまだ心身ともに柔らかい時期に、「この人こそ真の人間」という人物に出逢うことは、邂逅ともいえる最大の慶事であろう。

わたしは、二十歳のときに岡本太郎と対峙した。ことばをやりとりした、わたしは何かを覚ったのである。

 

そのときの様子を書き記しておこう。岡本太郎の直接の風韻を伝える人びとも少なくなっている。

彼が何物なのか、芸術家とは何なのか…… 

わたしは、あのとき以来、詩人の魂(=アーティスト魂)を忘れて過ごしたことはない。

 

時は、1980年代初頭、わたしが足繁く大阪の中之島図書館に通っていた時分に…… 

岡本太郎が、大阪にやってきた。

梅田の「ナビオ阪急」で個展と講演会をするために。

わたしは当時、大阪の英語の専門学校に通っており、なぜか不思議と惹かれて意気投合した同級生(二つ年上だったが、誕生日が同じだった)とともに、まず個展を見に出かけた。

 

その同級生は、和田さんというのだが、彼と私は互いに忌憚なく批判精神旺盛なままに、存分に言い合う仲であって…… 

まるで、ちょっと「世界的な芸術家である岡本太郎(の作品)」でも見てやるかといった気分で、わりと狭い空間の個展会場へ入っていった。

おのおの、美術関係の素養は豊かで、それなりの見識もあったので、しずかにたんたんと作品を見て廻った。

そうしているうちに…… 

ざわざわと観客が列に並びはじめて、岡本太郎が来場した旨の場内アナウンスが流れた。

「おっ、本人が来たの?」と、まさか本人に直接逢えるとは思ってなかったから、自分に自信のあった私たちでもさえも、少々興奮を抑えきれなかった。

画集や何かが積み重ねられたカウンターテーブルの後ろのドアから、唐突に彼があらわれた。

まるで言葉も愛想も発せずに、しずしずと「どこかの小柄なおじさん」といった風情で、岡本太郎がテーブルに座った。

多分、画集を買った人びとへのサイン会だったのだろう。

私たちは、思いもよらずご本人に会える僥倖にひそかに歓んだことだった。

和田さんは、なんの蔑みの念もなく、「普通のひとやな」と大阪人らしい感想を一言もらした。

OSAKA人は、日常が舞台やからな、できれば派手に充実したものであってほしいのかも知れんな、まー悪気はないんです。

わたしは、翌日の講演会のチケット🎫も入手していたから、また眼のつけどころが違った。

平生の岡本太郎に相見えるのは、仕合わせだと思った。

わたしは、その佇まいの内に、ある密度を感じていた。

なにかしら、拒んでいるような、別世界にいる人のような、人間らしい親しみも微塵も見せなかった。

まるで「隠亡(おんぼう)」のようだ。

或る西洋詩人が、魚座♓️の太陽を待つ者の雰囲気を、隠亡のそれに譬えていたのだ。

岡本太郎は、魚座の第1デーク(魚座の最初の十日間、2/20〜2/30くらいの生れ)の生れ、正確には2/26日生れ。

もっとも魚座らしいキャラクターを帯びている。(畏れ多くも、今上陛下も2/23日ご生誕)

「隠亡」とは、生死の場に立ち会う特別な役割を担う者である。古神道にも「殯の森」ってありましたね。

 

彼のベストセラー、『今日の芸術』を三度四度と読み漁り、すっかり「わたしの神」となっていた岡本太郎は、

ひじょうに物腰がひくく、謙虚に「隠亡」のようにして、わたしの前に現れました。

 

 

 

彼にしたら、サイン会に臨むことは不本意なことなのでしょう。ご自分の作品を金に変えなかった、稀有な作家だからです。

サイン中には、一言も発しませんでした、ただ静かにたんたんと眼前のものごとをこなし続けました。

そーゆー、社会人としてまともに振る舞える処も岡本太郎なのです。万博の委員会で「太陽の塔」のプレゼンをするにあたり、居並ぶ大物のお歴々の前で、いたって真面目に理論的にご自分のコンセプトを披歴した動画でもそれは確認できます。

彼は一方では、ソルボンヌ大学卒のフランス語🇫🇷を流暢に喋るインテリ文化人なのですから。

この、余人には真似のできない「落差」が、岡本太郎なのです。

 

さて、次の日、一切口をきかない隠亡の岡本太郎がどのように変貌するのか……    ドキドキしながら、

大好きな「ナビオ阪急」に向かった。(マルーン色の阪急電車は、関西のセレブリティなのだ、スデンドグラス風の阪急デパートの採光もすこぶる好い♪)

割と小規模で、100人入らないくらいの会場に、5人座れるくらいのテーブルが沢山ならべてあった。

この講演会は、ケーキ🍰と紅茶☕️付きの、ちょっとハイカラな催しだったのです。

わたしは、ルーズリーフのノートをもって、一言漏らさず、メモする気概でいた。

貧乏学生だったが、ケーキは口にしなかった。岡本太郎と対峙するのに甘いものはないだろうと真剣に臨んでいたからだ。

一緒に座った面々も、穏やかな人々だったと思う。向かいの人好きのする可愛いおばさんが、講演後の質疑応答で質問していたなあ。

「岡本画伯、血液型は? 好きな食べ物は?」みたいな、大阪のおばちゃん的なものだったのが可笑しかった。

まー、人数のわりにヒッソリとした雰囲気だった。知的な、文化的な人が多い印象がある。

東山魁夷とか横山大観とか、画壇の大先生みたいなイメージなのかも知れなかった。

アバンギャルド(前衛)芸術やらアブストラクト(抽象画)、キュビズム、シュールレアリズム(超現実主義)など…… 

岡本太郎に冠される肩書きなぞ、あまり興味のなさそうな、品の良い一廉の人物たちの集まりみたいだった。

 

そんな、大阪にしてはインテリ文化人めいた人たちの集う会場は、なにか「どれほどの人物か鑑定してやるわ」みたいなものだったかも知れないな。

そんな大阪ローカルな場に、東京🗼もんというか、フランス🇫🇷洋行帰りの世界的な文化人があらわれる構図でしょうか。

 

岡本太郎は、濃いグリーンの光沢スーツを纏って、さっそうと壇上にあらわれた。(オスカー・ワイルドも濃緑のブレザーを着こなしたらしいが、グリーンは英国🇬🇧紳士の定番らしいです)

机を前にして一拍おいて、やおら、サッと鳳凰の翼のように両手をひろげて高く差し上げた。

その瞬間、爆風が吹き荒ぶイメージに襲われました。

物凄い迫力というか、圧が押し寄せる感じなの。

ブワァ〜と、大波🌊が押し寄せてきたような体感でした。

 

 

映画『マトリックス・リローデッド』で、目覚めた人の原始的な世界・ザイオンで、民衆の前で演説を始めるときのモーフィアスに似ていたかな。

どこか、宗教的な厳粛さが漂っていました、意外な気配に一氣に呑み込まれましたね。

もう、心地よい興奮が湧き上がりました。

ルーズリーフ(B5判サイズ)ノートに、キーワードをメモするのが手一杯で、一瞬でも岡本太郎の表情をみのがさないように集中しました。

まるで瞑想しているような充実した集中の内に浸っていました。

話の内容はよく覚えていません。

ただ、いままで繰り返し読んできた、神格化された人物が目の前に(読解した通りにまさに)実在していることを、しみじみと実感していた。

ゾクゾクと嬉しくなったのをはっきりと憶えている。

こうやって生きてもいいのだと、心の底から納得した・理解した時間でした。いまでも、そうやって生きています。

自分の中から、岡本太郎を出して生きてる感じでしょうか。自分の中から観音菩薩を出すようにです。

 

あっという間に終わった講演であったが…… 

素の岡本太郎に迫る質疑応答の時間が取られていた。

みんな、どーでもいいような質問ばかりして、おおさか人は芸術を知らないのかと、岡本太郎が可哀想になってきた。

揃いも揃って「オカモト画伯」なんて、丁重に呼びかけていたな、私は岡本太郎の気持ちがそのとき分かるような気がした。

「画伯」と呼ぶ人は、岡本太郎の芸術を自分事として引き受けていない人であろう。

5〜6人の質問が終わった頃、会場の司会が「そろそろ…… 」と口走ったので…… 

岡本太郎への質問を聞いて、「そーじゃないだろ、そーじゃない、そんな芸能人に訊くような質問では失礼だろ」などと独りごちていました私は、

矢も盾もたまらず、ボルテージがMAXまで上がって…… 

ひときわ大きな声で、応援団長のように「はぁい!」と挙手した。

その時の岡本太郎の、「はい、そこ」と咄嗟に鋭く反応して、だらけた顔から一瞬に真顔となって私を指さして発言を促した機敏さには、やおら感動した。

常在戦場の如く、つねに芸術家たるもの瞬息の気合いに自分を表現するものなんだなという感慨である。

 

司会は、「時間が過ぎていますので、どうか、手短にお願いします🙏」と丁寧に私につたえてマイク🎤を渡した。

 

わたしは、あえて「岡本さん」と呼びかけた。

彼は心持ち頷いたように感じられた。

やっと、真剣に相手できる人間があらわれたたと、歓迎して対峙する構えである。

わたしは、この得難い瞬間にブルブル震えた。(武者振るい)肚に丹田に心持ち力をこめた。

当時、中之島図書館に通って、閉架から『原色の呪文』などを読んでいた私は、

「オカモトさんの『原色の呪文』に書いてあった、男性的な男性とは、どーゆー人のことですか?」みたいなことを訊いた。

しばし黙考した風の岡本太郎は、「男性的男性とは、君のような人のことだが…… 」と持ち上げるようなことも口にしながら、

「時間もないので」と断った上で、「男性とか女性とかに分けて考えないで、全身でぶつかる」みたいなアドバイスを僕にくれた。そして「そんなとこでいいかな?」と済まなそうに添えた。(岡本太郎が発見して、教科書に載るようになった「縄文式火焔土器」は、女性の作品だからねえ、それを考えると意味深)

わたしは、彼の真意が理解できたわけではなかったが、彼の真心をこめた応対には100%満足していた。

こーゆーひとが、実際にいるのだ。

対等に、同じ土俵で対峙してくれる芸術家。

そのことに、湧き上がってくる悦びを抑えきれなかった。岡本太郎とハダカで付き合ったと感じた。芸術家(創造する者)として、意識を共有した感があった。

この、神前におけるような真剣さは間違っていないことを確信した。そのとき、岡本太郎はわたしであった。

わたしが、岡本太郎であった。

この感じは、後年唱えられるようになった「BE  TARO」とは全然ちがうものだ。

「BECOME」ではない、「BE」なんだから、

原義は、「岡本太郎を生きる」ということ。

「岡本太郎になる」んじゃないんだよ。

岡本太郎として、真人間として、存在するのが「BE」の謂であろう。

自分の内なる岡本太郎を、しぼりだすのですよ。

そんな感じでしたね。

 

質疑応答が終わって、岡本太郎は壇上から観客席に下りて、テーブルの間を縫いながら退場していった。

わたしは、そのときスタンディング・オベーションで迎えれば、岡本太郎と握手できたかも知れないと、いまでも残念に思う。

歩み去ってゆく岡本太郎をじっと見つめるだけの私を、岡本太郎は歯痒かったかも知れない。

それほどの共感が、ふたりの間で生まれたことと思う。

濃やかに、あらゆるものの一致を共有した瞬間であった。

わたしは、それ以来作品を創らないアーティストである。(このブログは、作品にあたるのかも知れんけど)

 

わたしは、すべてに満足して会場を後にした、満ち足りた思いでエスカレーターに乗っていた憶えがある。

こんなとき、サッと立ち去るのが良いのだ。

 

 

岡本太郎は、1911年(明治44年)の生れである。あれで、明治の男なのだ。

変わり者の芸術家、母の岡本かの子について、

私にとっては母は、宇宙を支配する、おおきな

叡智をもつ先導者であった。

…… と後年に述べている。尊敬する画家ピカソと同じ背丈で、ひどいマザコンなのも同じで、おふたりは意気投合したものらしい。

 

 

岡本太郎は、フランス🇫🇷に渡って、画廊でピカソの『水差しと果物鉢』(1931)の抽象画に出逢う。

岡本太郎は「涙が出るほど感動した、感動したからには、あれを乗り越える」と、抽象芸術に入っていったもののようだ。

このへんは、わたしも同じだ。

感動したら、それを乗り越える。憧れだけに終わらないのが芸術家(詩人でもアーティストでもよい)なのだ。それが、真剣な対峙の意味するものである。

岡本太郎は、わたしの佇まいからそれを観受したのである。彼はそうやって生きてきたのである。出逢う人出逢う人に、偉かろうがそうでなかろうが、目の前の人に真剣に対峙してきたのである。

それがわかって、わたしは嬉しかった、飛び上がるほど嬉しかった。わたしもそうしようと思った。

 

 

__ 長々と体験を綴ったが、過去に書いた拙稿も載せておこう。

 

 🔴一無位の真人―岡本太郎

[2009-02-02 12:58:51 | 玉ノ海]

『岡本太郎』‘TARO’ の署名は ‘ROTA (輪・蓮)’ ‘TAROT(タロットカード)’ の意も含ませているのでしょー

エロスは、タブーの侵犯であると宣った、生命讃歌の哲学者_ジョルジュ・バタイユが主宰する秘教結社に、異国人ながらも誘いを受けるほどの霊的感性を具えもち

シュール・レアリズム運動を牽引した奇才_アンドレ・ブルトンが 絶大なる信頼を寄せ、

ピカソ・ダリのカタロニア~バスク地方の霊性からも等しく認められ

縄文式火焔土器、沖縄、韓国、東北、そしてメキシコの土地の大地性に 濃やかに感応し独自の表現をし続けた ひと

おおらかで、やさしく、なつかしい感じのする御方でした

…… ハタチの頃、大阪はナビオ阪急にて、ご本人と対峙したことがございます……  大仰ですが、まさにそんな感じの息詰まる対話でした

オスカー・ワイルドばりに英國紳士好みの濃緑(艶アリ)のスーツを着込み、演壇にスクッと立つや、両腕を翼のよーに広げたときの

まるで爆風のよ~な『オーラ』(私ハ零能デス)は、今にして忘れられません!

 

芸術は‥爆発だっ!!”

この有名な言葉の中の『爆発』とは、

無音の爆発のこと、即ち静寂のうちに推移する命のほとばしりのことを云っているのです

ぉ大師さんの 生生死死始終暗冥(秘蔵宝鑰)’ の句に似た 静けさが支配する中で営まれる、人間的な命の燃焼=発光を物語るものだと解釈しております

ふだんの彼は、いたって謙虚で音無しく、隠亡のよーなイメージがしました

うちの県にある蔵王スキー場によくぉ越しになった頃、インストラクターをしていた近所の兄チャンの印象も同様との事

それが、一度び獅子吼するや、無類のオリジナリティを発揮して已まないのです

 

酔狂にも、臨済禅の師家の集まる法会で 講演したこともあるそーデス

居並ぶ禅匠を前にして、仏に逢うては仏を殺せ…” について禅問答を吹っかけたんですから底が抜けています♪

詳細をご紹介できないのが残念だが…… たしか街の辻で自分に逢ったら、如何せん?とかいった内容でした

師家連中が、固唾を呑んで見守る張り詰めた空気のなか、岡本太郎が垂示した切り返しは、それは見事なものだったと嘆声が漏れる場に居合わせた師家が書いてました

存外に禅定力あったんだナァ♪

BE TARO!』は、自分の存在認識運動であろー

 

 

__ 上記の拙稿の中で、「臨済禅の師家の集まる法会」の詳細を以下に引用します。

◆◆◆(岡本太郎『自分の中に毒を持て』より)>

京都文化会館で二、三千人の禅僧たちが集まる催しがあった。

どういう訳か、そこで講演を頼まれた。

ぼくはいわゆる禅には門外漢であり、知識もないが、自由に発言することが禅の境地につながると思う。

日頃の考えを平気でぶつけてみよう。そう思って引き受けた。

ぼくの前に出て開会の挨拶をされた坊さんの言葉に、臨済禅師という方はまことに立派な方で、

道で仏に逢えば、仏を殺せ

と言われた、素晴らしいお言葉です、という一節があった。

有名な言葉だ。ぼくも知っている。

確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。

しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。

今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、はたして実際の働きを持つだろうか。

とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。

で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。

 

「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」

誰も上げない。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。

では、何に逢うと思いますか」

これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。

「出逢うのは己自身なのです。

自分自身に対面する。

そうしたら己を殺せ」

 

会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

これは比喩ではない。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、【条件】に挑まなければならない。

いのちを賭けて運命と対決するのだ。

その時、切実にぶつかるのは己自身だ。

己が最大の味方であり、また敵なのである。‥‥ ()‥‥

ぼくは臨済禅師のあの言葉も、

実は「仏」とはいうが即己であり、すべての運命、宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証法的に解釈したい。

禅の真髄として、そうでなければならないと思う。」

 

 

…… この、禅坊主どもを唸らせた講演も、司会の山田無文老師が、結構なお話でしたと、そつなくまとめて何事もなかったかのように終わるのだが、岡本太郎はその非凡な力量を認めつつも「喰えない坊さんだなあ♪」と苦笑まじりに述懐している。

それでも「臨済将軍」と云われるほどに機鋒の烈しく、公案(禅問答)で錬られているバリバリ現役の臨済宗の坊さんが一堂に会している場で、いくら依頼されたからといって、まともな神経で臨めるものではない。

岡本太郎の生き方は、それを力むことなく平然とやるところに、禅的な境涯が多分にあると思える。

あの、レタリングのような筆字は到底いただけないが(祖父が書家だった血筋もあるのだが)、岡本太郎の絵画作品は禅宗坊主の「墨蹟」に優に匹敵するとはいえるのではあるまいか。

なんにせよ、破格に面白い御仁であった。

岡本太郎以前と、岡本太郎以後とでは、芸術(=岡本太郎にとって生きることと同義であった)の捉え方・あり方がまったくといってよいほど違う。

 

 

【毎日新聞の動画より。1975年に石原裕次郎の石原プロモーションで制作した秘蔵フィルムである。「3:44」からのヘラ刷毛による描画がすこぶる佳い】

 

破天荒な人物と思われるかも知れないが…… 

岡本太郎は東京美術学校でも、トップの成績で入学した。

ダリやピカソの如く、人並外れた精緻なデッサンを描ける基礎があった。

それゆえ、美術伝統の「型」をマスターした上で、「型破り」をしたわけで、ただの出鱈目な抽象絵画とは、その成り立ちを異にする。

岡本太郎は、なんでも基礎は徹底して修練した。

フランス語でも、子どもたちと共に寄宿舎に入って、習い覚えて、フランス語を母国語とする現地人を驚かせるほどにフランス語を使いこなしたものである。フランスのテレビ番組でもそのコメントが大人気であった。

ただの、世間知らずの絵描き👨‍🎨とは別物なのである。

「太陽の塔」を作っていた頃に、メキシコ🇲🇽で「明日の神話」の壁画も作っていた。黒い太陽と、原爆のドクロは、メキシコの髑髏信仰と呼応するのである。

圧倒的な生を描くことは、圧倒的な死を描くことでもあった。

それゆえに、生身の岡本太郎に対面することは、わたしにとって「成人式」にも等しいことに思えたわけである。

大阪は、わたしのそんなイニシエーションの聖地であった。

       _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

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