『 自然は全機する 〜玉の海風〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「生きてるだけが仕合せだ」🍎

《ちょい言》 「ら抜き言葉」 の辿った歴史的推移

2021-07-22 07:19:37 | 日本語

むかし、美空ひばりがご家族の事情諸々あり、NHK紅白歌合戦を「卒業」なされてのち……

紅白と同じ時間帯に、裏番組として中継されていた、新宿コマ劇場のライブ映像をBSで拝見した

美空ひばりを照らし出すカメラワークが抜群だった、お顔のクローズアップに後ろ姿を映す写角、若きひばりがまさに弁財天に観えるほどに生き生きと活写されていた

彼女のうたは、演歌とも歌謡曲ともちがう、美空ひばりの独自の哀歌となっている

ジャズを英語で口遊んだものも佳い

戦後の焼け野原から立ち上がった日本国民を鼓舞し続けたご功績 は、もっともっと評価・感謝されてしかるべき偉大な歌い手でありましょー

うちの認知症の母が、テレビに映ったひばりと一緒に楽しそーに口ずさんでいた

その昔ラジオで流れる ひばりの曲を耳できいて、姉妹で一小節ずつ交代に書き写して、あとでまとめる作業を経て、苦労して覚えた曲なのだそーだ

認知症になっても、ひばりに憧れた日の若き情緒は忘れてはおらぬもののよーだ、美空ひばりはうちのお袋同様人生の哀しみをよく知っておられたから……

スペインのカンテ=フラメンコの如く、明るい曲調にあっても哀感が横溢している

分神の哀しみ、復た統合和合する歓喜は、どこの国いつの時代でも詩歌の主題である

 

さて、美空ひばりが歌う日本語が、わたしの日本語の大本にあるのだが……

例の「ら抜き言葉」は、どーみてもひばりが歌いそーにはないと思うのだ

林修先生が、『初耳学』で、ら抜き言葉を取り上げてくださったことがある ♪

氏はそれまで、現代国語の講師として、ら抜き言葉を指弾されてきたが……

ツイッターで注目された学説を踏まえて、その姿勢を大きく変えられたよーだ

 

> 「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」じゃない? 予想外の真相が

(20171128 withnews」より)

https://withnews.jp/article/f0171128000qq000000000000000W06w10101qq000016304A

> 「見れる」「食べれる」といった「ら抜き言葉」。

一部の人には評判があまりよろしくない使い方ですが、

文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」では、「ら抜き言葉」を使う人が、使わない人の割合を初めて上回りました。

 

‥‥ 今でしょ!先生が、引用された学説は、二松学舎大学の島田泰子教授 の講義だと思われます

(withnews」より)> 本人に話を聞きました

島田教授によると、「ら抜き言葉」はその名のとおり、可能の助動詞「られる」の「ら」が抜けたと取られるのが一般的。

しかし、抜けているのは「ら」ではなくarだ、とする見方も成り立つのだそうです。

 

室町時代から遣われている可能動詞の例として、

「行かれる行ける」「歩かれる歩ける」

ikareru → ikeru」「arukareru → arukeru

▼ 大正・昭和時代から遣われるよーになったものの例としては

「見られる見れる」「食べられる食べれる」

mirareru → mireru」「taberareru → tabereru

 

つまり、古くから遣われているものは「ら抜き言葉」として問題視されず、まったく同じ現象でありながら最近になって遣われるよーになったものに対しては目くじらを立てているとゆー状況となっているそーです

なるほど、文法として法則立ってはいますが、同じ現象だから「問題ない」(林先生のご意見)とは、単純に言い切れないと私は思います

「見れる」「食べれる」が室町時代に遣われなかったのは理由があると思うからです

現在、「見れる」「食べれる」は端的に「可能」を表す言い方 としてならば優れているとは思います

「見られる」「食べられる」には、「尊敬」や「受身」の意味合いを表すこともあり、即座に判りにくい一面が確かにあります

‥‥‥‥ がですよ、

「見れる」「食べれる」「生きれる」なんて、美空ひばりは唄わないのじゃないか知らん

これらの語感が果して、日本人の情緒に…………?

                                              _________玉の海草


  「まじめな日本人」 像が壊れた年〜 1977 (昭52) 年

2021-07-20 16:30:35 | 歴史・郷土史

__ 受験するときに、重要視される「内申書(調査書)」に隠された国家戦略 …… そして日本的真面目さが国民からソッポを向かれた注目すべき年を振り返ることで、古き良き日本人から現在の姿に移行していったプロセスを辿る

 

昔流行った、アルビン・トフラー『第三の波』注目すべき記述があったことを後年に知った

昭和の時代、所謂「内申書」に書かれる項目には、深い仔細があったのだと云う

学校生活をきちんと送ることは、当時の高度成長経済の工業従事者に求められる適性と密接にリンクすると云うのだ

底知れぬ深慮の御仁が創案したものででもあったのだろーか

 

そこには、重要な3項目のチェック・ポイントが存在する

①時間を守る(遅刻しない、毎日通学する)

②教師の話をよく聞く

③授業の退屈さに耐える

 

…… ③番なぞ、特に秀逸な視点である♪

毎日続く退屈なルーティンに耐性を具えていることは、極めて大事には違いない

①は、そのまま会社の通勤や規律に結びつくし、

②は、上司や先輩への姿勢に反映することでもある

つまり『内申書』の評価は、工業製品の製造業者に求められる適性の有無を正しく伝えていることになる

実に卓抜なシステムだったんですナ

 

現在、内申書の評価はどんなものなのか、よく分からないが…… 

名門「栄光ゼミナール」の資料(内申書対策)の中には、確かに上記のトフラー説を裏付けるものがある

学業成績の他に、出欠状況、行動記録(特別活動ー部活動、生徒会活動、学校行事)、そして担任による総合的人物所見…… 興信所みたいな雰囲気がある

 

実際の内申書対策を具体的にみてみると…… 

内申点を上げる3つのポイント

最初に見たように、内申書は学期ごと、学年ごとの成績の積み重ねを1枚の書類にまとめたものだ。だから、学期ごとの成績を上げることが内申点のアップにつながるよ。では、成績を上げるにはどうしたらいいのだろうか。

①定期テストの点数

②課題の提出状況

授業態度・学習態度

‥‥ なるほど、上に立つ人の言うことをマジメに聞いて、授業態度がよい生徒は、工業社会に入っても、忠実な部下となることだろー

 

別の角度から、昭和の日本人の意識変化をみてみると…… 

映画『ロッキー』や『フラッシュ・ダンス』が上映された頃…… 

まじめに努力して、成功を掴みとるストーリーが、日本中を感動させたとばかり思っていたのだが…… 

しかし、勤勉で上昇志向の日本人にヒットするはずの、これらの映画は、目論見を大きく裏切って‥‥ 実は不振だったのである!!

日本人の意識調査……  日本青少年研究所/日本生産性本部/日本経済青年協議会/統計数理研究所/総務青少年対策本部庁が収集・集計したデータの年毎の推移を仔細に追っていくと、

この時期に、劇的な転換”(価値観の逆転)が表面化しているのだと云う

 

千石保『 “ まじめ ” の崩壊』(サイマル出版会.1991年)に拠ると

>1977(昭和52)年前後のこと、日本人の価値観が決定的に変化した。…()…

それまでやたら権利を振りまわす傾向が強かったのだが、

1977年、公共の利益のために私権が制限されてもやむをえないという意見が多くなり、当時、社会党の支持率が二割近くも激減している。

左翼的なイデオロギーでなければ学生でない、といった雰囲気もガラリと変わり、保守的でおとなしく反抗しない学生へと変身したりした。

このほか、仕事優先⇒余暇優先、勤勉⇒遊び志向、そしてマンガの流行、カラオケ・ブーム、深夜TVの女子大生ブームを経て、

シャイな日本人から パフォーマンスの日本人へと、日本人の “ ひとが変わった ” のだと千石氏は云う

高度成長が頭打ちとなり、「モノ作り日本」の製造加工業種に翳りが見えて来ると、下積みの長い職人よりも手っ取り早く稼ぎたくなるものか…… 

アイドルはじめ「虚業」の無生産者が全盛期を迎える80年代

個性重視で「個人主義」へ傾き、その流れで「世界進出」が奨励されて、スポーツの分野においても世界レベルに伍して自分を主張できる日本人が現れ始める90年代

 

>昭和52年前後に、いったい日本で何が起きたのか。

大きな社会事象としては、第一次オイルショックによる日本経済の低成長だろう。

昭和48年暮れに日本を襲ったオイルショックは、翌49年にトイレットペーパー不足などの狂乱物価といわれる事態を引き起こした。人手過剰、高賃金を背負った企業は、人減らし作戦に打って出た。

この事態に―

右肩上がりの経済成長を当然視してきたサラリーマン達は、家庭をないがしろにしてまで忠勤に励んだ会社からソッポを向かれ、会社から離れては一向に潰しの効かない自分を発見して愕然としたのである。

>不思議なことに、当時、この父親の子供であり最も感じやすい年代の中学生だった昭和378年生まれが、後の「新人類」第一号となった。

多分、この深刻な父と母の会話が彼らの価値観に大きく影響したのではないか。

会社のために生きるのではなく、自分に忠実に生きるべきだ、と…… 

 

‥‥ なんとも身につまされる話である

わたしは当の新人類(栗本慎一郎命名)の世代なので、歴史の水面下で起きていた事象に愕然としてしまう

1980〜1982年の「漫才ブーム」の時は、私は高校生だったが…… 

ツービートのたけしの科白「赤信号、みんなで渡ればこわくない」が一世を風靡した

この流行語は、日本人の生真面目さを手玉にとった笑いで、新人類の一回り上の世代である「団塊の世代」を代表するビートたけしを際立たせた

2007年から、この「団塊の世代」(1947〜1949年生れ)の定年退職が始まった、つまりサラリーマン人口の大幅な減少が見込まれた

そして彼らの子ども「団塊ジュニア」(1971〜1974年生れ)は、30代の働き盛りに差しかかる

2007年は、ブログ『伊勢-白山 道』の始まった年でもある

この十数年に、何が起こったのか……  未曾有の自然災害(?)に相次いで襲われることとなったが、その一方で「感謝」がキーワードとなって、日本人の美徳が世界から褒めそやされることになる

若者たちは、尊敬する人物として、自分の両親を挙げるよーになる

悪いことではないが、昔の日本人は身内を持ち上げないものだった

さてさて、これからどー変わるのか、果して日本人はそれほど特別なのか、注目してゆきたい

         _________玉の海草

 

 


《ちょい言》 吉幾三の豪邸〜  「ホワイトハウス」 (雪國御殿)

2021-07-20 01:15:26 | 雑感

夏の盛りに冬の話もなんだが…… 

東北人としては、語り継ぎたい乙なエピソードである、ましてこの非喜劇は、吉幾三の親孝行に発しているのだから、哀愁があるとゆーか切なくそれ故どーしよーもなく可笑しい

 

東北の冬は白い🌨

見渡す限り白銀の、別の雰囲気に纏われた、冷たく乾いた世界である

一面、清浄ではある

以前に、みのさんの『ケンミンショー(東北被災地再会SP)』で、そんな東北の北端・青森に「白亜の豪邸」を建てた人の話を聞いた

雪が下から吹きつける地吹雪とか、雪の猛威にさらされた経験がないと、この可笑しさは実感できないかも知れないが…… 

冬の東北❄️で吹雪く日に、真白い建物はまず目印にはならない(そもそも見えない)

どの方角に家があるのか皆目分からないのだ

街中ならまだしも、郊外の一軒家では冗談抜きで自分んちでも帰れない

 

その豪邸のある場所は、青森県五所川原……   津軽三味線発祥の地(明治・大正と活躍なされた門付け芸人の天才・仁太坊の生誕地)にして、太宰治出身地でもある

ネットで写真を拝見した限り、その豪邸はかなり高純度の洋風建築で

地元では「ホワイトハウス」とか「雪國御殿」とか呼ばれているらしい

そー、天下の大歌手・吉幾三の御邸宅でありました

しかし、寒風吹き荒ぶ五所川原の町外れに、全面真っ白い家を建てるかねえ~♪

吹雪に見舞われると「ホワイトアウト🤍」なのに

ご両親のためにお建てになった豪邸らしいのだが、残念ながらご両親はお住みになっていないよーだ

 

闇の夜に 鳴かぬ鴉の 声きかば 生まれぬ先の 父ぞ恋しき 〜伝:一休作〜

吹雪のなかの白堊の御殿って、ちょうどこの道歌の感じであるな

吉幾三御大のホワイトハウス…… いいじゃありませんか ♪

この遣る瀬なさが青森魂なんだなあと、やおら感動する

 

 

《以下、20240309 に加筆🖌️》

__ 最後に、古代東北の蝦夷(えみし)精神と、最先端のテクノポリス東京🗼の首都意識との融合みたいなマッシュアップをお聞きください。

 

【IKZO】STAY TUNE in 農協 【Suchmos】【吉幾三】

 

…… 魚🐟や野菜🥦の、地方から東京への流通を思わせるようなマッシュアップになっている。

虐げられた東北、埋没神の眠る鬼門の東北に流れるスピリットは、都会が牛耳る国の政(まつりごと)において、恒に通奏低音となって日本国中🇯🇵に響いていよう。

      _________玉の海草


 「坐禅」 の源流〜 それは中国の道教にあった 「坐忘」

2021-07-17 21:40:16 | 小覚

> 顔回がいった、「わたくし、進境がありました。」

仲尼はたずねた、「どういうことだね。」

「わたくしは仁義のことを忘れてしまいました。」

「よろしい。だがまだじゅうぶんではない。」

 

別の日、〔顔回は〕また面会するといった。

「わたくし、進境がありました。」

「どういうことだね。」

「わたくしは礼や音楽のことを忘れてしまいました。」

「よろしい。だがまだじゅうぶんではない。」

 

別の日、〔顔回は〕また面会するといった、

「わたくし、進境がありました。」

「どういうことだね。」

「わたくしは 坐忘(ざぼう)ができるようになりました。」

仲尼は居ずまいを正してたずねた。

「坐忘とはどういうことか。」

 

顔回は答えた、「手足や体の存在をうち忘れ、耳や目の働きをうち消し、この肉体から離れ心の知を追いやって、あの大きくゆきわたる〔自然の〕働きと一つになる、それが 坐忘 ということです。」

 

仲尼はいった、「一つになれば〔ひとりよがりの〕好き嫌いはなくなるし、変化していけばかたくなでなくなる。

おまえはやはりすばらしいね。このわたしもお前の後からついていこう。」

[※ 『荘子』内篇・大宗師篇 第六/金谷治:訳注より]

訳注;「坐忘」ー司馬彪いう、坐して自ら其の身を忘ると。坐ったままで万事を忘れ去ること。斉物論篇第一章、南郭子綦の「吾れ我れを喪(わす)れたり。」に当たる。

 

‥‥ 「坐忘」の箇所の読み下し文は、

「枝体(したい)を堕(こぼ)ち聡明を黜(しりぞ)け、形を離れ知を去りて、大通に同ず」

訳注;大通の「通」は、ゆきづまることなく万事万物をつらぬき流れること。自然の道の働きをいう。…… 王叔岷は、…… 大通とは得道の至境をいうとした…… 

 

‥‥ まー、ゆーまでもないが「仲尼」は顔回の師である孔子のこと

孔子の母上は顔徴在といわれ、顔回と同じ顔氏の生れ、「儒」は葬儀を扱う霊能者集団であったと聞く

酒見賢一『陋巷にあり』(全13巻)に出てくる孔夫子は、強大なる霊力を持ち、教科書に出てくる「孔子」とは大違い、顔回と共にサイキック・ウォーを戦い抜く、いたって長編だが瞠目すべき傑作である、この小説の孔子像は 白川静 翁の研究に基づいているが、彼の創出した孔子像が実際の孔丘に近いのではと私は思う

なるほど、古代日本は「儒教」は入れず、「儒学」のみ入れたと云ふ

孔子の儒教には怖い処がある、『易経』はほとんどオカルト(隠秘学)だし、礼楽とは「霊楽」に他ならず、失伝した 【楽経】 には死に至らしめる楽曲が含まれていたらしい

孔子門下で、顔回の評価が高いのは、そーした霊能者としての境涯に焦点をあてたからではないかと思う

道教の「仙道」と相通ずるものがある

そのへんを荘子は汲み取って、顔回に道教由来の「坐忘」をあてがったのではないかと思う

 

この、静観とゆーか、ヒンドゥーのアドヴァイタ(非二元)における真我探究のアプローチによく似ている

ジュニャーニの道では、身体意識に源をもつ「知識」を放棄して、「真の知識」といいますか「最後の知識」、つまり真我実現をめざすわけですが、すべてが自分から流出するとの認識、アダムスキーの云った「大自然と同位に立つ」とゆー境涯…… 

内なる自分に神性を観るプロセス、内なるサッドグルにアクセスするプロセスに「坐忘」が重なってくる

驚くべきことに、この老荘の道教由来の「坐忘」があったから、達磨大師がインドから伝えた「禅」が「坐禅」として定着したのだと云ふ

 

釈迦十大弟子の筆頭、長老格の摩訶迦葉尊者は、釈迦仏滅後の第一結集(けつじゅう)のMCも勤めたし、多聞第一の阿難尊者を育てて、「結集」に参加させもした

結集は、釈迦によって見性(悟り)した者しか参加出来なかったから、それでも「500羅漢」とゆーよーに、ギリギリ間に合った阿難尊者ふくめ500人位はいたわけである

摩訶迦葉が二代目、阿難が三代目、禅宗の系図ではそーなっている

死ぬと、禅寺の檀家は「血脈(けちみゃく)」と呼ばれる、釈尊の弟子(仏教徒)であるとゆー証明書を和尚からもらい、棺桶に入れる

その中には、釈尊から連綿と受け継がれ、檀家寺の和尚にいたるまでに経てきた法脈が記されているそーだ

三代阿難尊者から達磨大師まではインドで、そのあと達磨の仏法を継いだ慧可からは中国が舞台だが…… 

あきらかに、禅風がちがう

中国はインドのよーに哲学的思索よりも、実生活とゆーか実際の現場主義を重んずる風潮が強い

その折り合いをつけた結果が、中国人が知っていた「坐忘」を「禅」にあてはめたものだろー、中国は自分たちが既に知っていることを未知のものにあてがう性癖がある

坐禅にまとわりついている神秘的な雰囲気は、道教の仙道から来るものにちがいない、結跏趺坐はアーリア人の脚の長い釈尊にとっては単なる楽な姿勢にすぎない、坐禅を行法とみるのは間違いかも知れん

道(タオ)といい、大自然といい、八百万の神という…… 

その淵源はひとしく、おなじと観てよいのだと思う

          _________  玉の海草

 

 

 

 

 


《ちょい言》  昔のサラリーマンは、教養があった

2021-07-15 23:41:26 | 日本語

いまのひとには想像もつかないだろーが、旧漢字体を読み書きしていた昔の人たちは、大変だったでしょー

今現在使っている漢字は、略式表記であり(中国の簡体字みたいなものである)…… 

昭和30年代後半―東京オリンピックの頃、日本中の印刷物で現在の漢字体が使われるよーになったのであり、それまでは画数の多い旧漢字体(真漢字)を使用していたと記憶する

ex.旧、寶宝、壽寿 ]

★ 豆知識「寿」の旧字の「」は字形から
「さむらい(士)のフエは一インチ(吋)」と覚える
(*『漢字源』より)

私の若かった時分には、まだ旧漢字を使った本がわずかだが店頭に並んであった

忘れられないのが私が初めて読んだ旧漢字の本……  五味康祐『柳生武藝帳』全三巻・新潮文庫-である

剣豪小説の白眉とも謳われる、この未完の傑作をどーしても読んでみたかったのである

現在では、家光公の剣術指南役だった一大名(大目付)柳生但馬守が、影の組織「裏柳生」をつかって幕府の汚れ役をしていたたゆー歴史的視点は珍しくもないが…… 

一連の「柳生もの」で、精緻な剣豪小説を純文学的なミステリー小説へと昇華させた五味康祐を嚆矢とする

五味の芥川賞受賞作は『喪神』、幻の無住心剣術を想わせるよーな純粋なる剣豪小説である

当時の『柳生武藝帳』文庫本はたしか、旧漢字をつかった古い版しかなかった

聖書も昔の文語訳は格調高いが読みにくいものだが……  この、日本浪漫派(保田與重郎)の流れを汲む作家の、雅やかで詞藻豊かな文章(手相は観るはクラシック音楽評は玄人はだしの風流人であった)には、読みにくいにも拘らず一字一句に魅了されたのである

しかし、最初はまったく読めなかった

そこで、漢和辞典・古語辞典・国語辞典を傍らに控えて、一行ずつ読み解いていった

時間が掛かった

が…… 、それは、美しい日本語に触れる至福の時間でもあった♪

徐々に馴れて、すらすら読めるよーになった頃には最終巻になっていた

いままで、この未完の剣豪小説は5回くらい読んでいるが…… 、23回目が一番面白かったと感じる

 

長々と読書談義を書き綴ったが……   東京オリンピック頃までのサラリーマンは、この旧漢字を読みこなし、柴錬の『眠狂四郎無頼控』五味の『柳生武藝帳』連載で売上を伸ばした『週刊新潮』片手に、通勤電車に揺られていたのである(この二作は、洛陽の紙価を高からしめた名著」と謳われた大ヒット連載小説である)

たかだか50年位前の話だが、和漢の素養の質が段違いだったのはお分かり頂けよー

         _________玉の海草