むかし、美空ひばりがご家族の事情諸々あり、NHK紅白歌合戦を「卒業」なされてのち……
紅白と同じ時間帯に、裏番組として中継されていた、新宿コマ劇場のライブ映像をBSで拝見した
美空ひばりを照らし出すカメラワークが抜群だった、お顔のクローズアップに後ろ姿を映す写角、若きひばりがまさに弁財天に観えるほどに生き生きと活写されていた
彼女のうたは、演歌とも歌謡曲ともちがう、美空ひばりの独自の哀歌となっている
ジャズを英語で口遊んだものも佳い
戦後の焼け野原から立ち上がった日本国民を鼓舞し続けたご功績 は、もっともっと評価・感謝されてしかるべき偉大な歌い手でありましょー
うちの認知症の母が、テレビに映ったひばりと一緒に楽しそーに口ずさんでいた
その昔ラジオで流れる ひばりの曲を耳できいて、姉妹で一小節ずつ交代に書き写して、あとでまとめる作業を経て、苦労して覚えた曲なのだそーだ
認知症になっても、ひばりに憧れた日の若き情緒は忘れてはおらぬもののよーだ、美空ひばりはうちのお袋同様人生の哀しみをよく知っておられたから……
スペインのカンテ=フラメンコの如く、明るい曲調にあっても哀感が横溢している
分神の哀しみ、復た統合和合する歓喜は、どこの国いつの時代でも詩歌の主題である
さて、美空ひばりが歌う日本語が、わたしの日本語の大本にあるのだが……
例の「ら抜き言葉」は、どーみてもひばりが歌いそーにはないと思うのだ
林修先生が、『初耳学』で、ら抜き言葉を取り上げてくださったことがある ♪
氏はそれまで、現代国語の講師として、ら抜き言葉を指弾されてきたが……
ツイッターで注目された学説を踏まえて、その姿勢を大きく変えられたよーだ
> 「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」じゃない? 予想外の真相が…
(2017年11月28日 「withnews」より)
https://withnews.jp/article/f0171128000qq000000000000000W06w10101qq000016304A
> 「見れる」「食べれる」といった「ら抜き言葉」。
一部の人には評判があまりよろしくない使い方ですが、
文化庁の2015年度「国語に関する世論調査」では、「ら抜き言葉」を使う人が、使わない人の割合を初めて上回りました。
‥‥ 今でしょ!先生が、引用された学説は、二松学舎大学の島田泰子教授 の講義だと思われます
(「withnews」より)> 本人に話を聞きました
島田教授によると、「ら抜き言葉」はその名のとおり、可能の助動詞「られる」の「ら」が抜けたと取られるのが一般的。
しかし、抜けているのは「ら」ではなく「ar」だ、とする見方も成り立つのだそうです。
▼ 室町時代から遣われている可能動詞の例として、
「行かれる → 行ける」「歩かれる → 歩ける」
「ik《ar》eru → ikeru」「aruk《ar》eru → arukeru」
▼ 大正・昭和時代から遣われるよーになったものの例としては
「見られる → 見れる」「食べられる → 食べれる」
「mir《ar》eru → mireru」「taber《ar》eru → tabereru」
つまり、古くから遣われているものは「ら抜き言葉」として問題視されず、まったく同じ現象でありながら最近になって遣われるよーになったものに対しては目くじらを立てているとゆー状況となっているそーです
なるほど、文法として法則立ってはいますが、同じ現象だから「問題ない」(林先生のご意見)とは、単純に言い切れないと私は思います
「見れる」「食べれる」が室町時代に遣われなかったのは理由があると思うからです
現在、「見れる」「食べれる」は端的に「可能」を表す言い方 としてならば優れているとは思います
「見られる」「食べられる」には、「尊敬」や「受身」の意味合いを表すこともあり、即座に判りにくい一面が確かにあります
‥‥‥‥ がですよ、
「見れる」「食べれる」「生きれる」なんて、美空ひばりは唄わないのじゃないか知らん
これらの語感が果して、日本人の情緒に…………?
_________玉の海草