bowbowのゆううつ~Returns

双極性障害Ⅱ型(躁うつ病)サバイバー&共生模索中のbowbowの日常。

ストレスと脳と器質。

2011-10-27 15:21:01 | 双極性障害・躁うつ病

今日たまたま九州大学の精神科医・神庭重信氏のある論文をネットで見つけて読んだ。

話としては以前は生まれつきに壊れたり歪んだり偏った脳が精神疾患を引き起こすと考えられてきた。けれど近年の研究では人間の脳は発達成長後でもストレスで器質的に破壊され得るという話である。そして一方で以前は人間の脳細胞は発達成長後、ただ死んでいくと考えられてきたが、現在では環境によっては新しく再生されると確認されてきたことである。

器質とは構造的・形状的なことをいう。脳であったならたとえば双極性障害は遺伝的傾向があると古くからいわれており、つまり脳の「器質的」な偏りということになる。

上述の論文でいくと、以前は生まれつきで交通事故外傷でもないかぎり変化がないと考えられてきた脳が、ストレスでもともとの器質を破壊される可能性があるということになる。

社会の変化とともに心の病や精神疾患は変化していくといわれるが、それは社会のストレスの質が変化しているためだともいえるのかもしれない。ボクの双極性2型障害は「新型うつ病」と初期にはいわれたが、生まれながらの器質とストレスによる器質変化と様々なものが混じり合って成立しているのだろう。

一方で、ボクのいま飲んでいる薬もそうであるが、仮説とはいえ脳神経を再生させる効果があるとされる気分調整薬を飲んでいる。ストレスの一方で、器質的に変化した脳細胞が再生する可能性をも秘めている訳で、何にしても人間の身体というのは本当に不思議なものである。

前に紹介した中島らもさんの「こころだって、からだです。」というコピーは本当に両義的なことばで、本来ストレスはこころの領域であろうし、脳細胞の再生は身体の領域であるんだろうが、どちらがどっちと区別すること自体が変なのかもしれない(関係あるかわからないが、有酸素運動をしたり、座禅/瞑想をしたりすると情緒に関係する脳内物質セロトニンが増えるという話がある)。

デカルトによって分断された身体と精神は、21世紀になって科学的に統合されつつあるということだろうか。


双極性障害の自覚。

2011-10-26 11:50:27 | 双極性障害・躁うつ病

ボクは双極性Ⅱ型障害なので、抗うつ剤で躁転するまでは軽躁で、だから自分自身の病気に対する自覚というのは弱かった。

というより、最初「双極性Ⅱ型障害ではないか」と言われたときに、非常に反発を感じたし、自分の仕事やそのほかの活動が病的であったという可能性を認めることが難しかった。

いま思うと、全部ではないが、やはりその頃もうつ病治療で抗うつ剤を使っていて、躁転はしなくとも軽躁状態であった頃も存在していたと思っている。

認めるのはすごく嫌だが、実際双極性Ⅱ型障害が脳の病気であったり、現在の精神科の薬がよくもわるくも脳内物質に直接働きかけるものなのだから、軽躁であったことは全否定できないし、十分にあり得る。

自分の認めがたい状態を認めるというのは勇気のいることで、現実を現実として認めるのもほんとうに勇気のいることだ。

ただよく臨床心理で「いま、ここに、生きる」と言われるように、そうした心の態度が本当に大切なのだと思う。

病気という今を、双極性障害という今をここに生きる。結局、それがいちばん大事なのだ。


自然体で生きるということ。

2011-10-24 13:26:24 | 双極性障害・躁うつ病

自然体で生きるとよくいうが、人間自体不自然なもののような気がする。

病気になればそれを一生懸命治そうと努力する。

しかし一方でそれは自然に起こった病気に対して、少なくとも心の態度としては不自然であり、自然を支配しようとする態度なのかもしれないと思ったりもする。

水の中にいて、もがけばもがくほど沈んでいくように、病気に対してもがけばもがくほど不自然になっていくのかもしれない。

あたかも精神病とか心の病とか呼ばれる病気は、まるで修行をしているようなところがある。

世界の端っこや終わりにたった一人ですくっと立っていられるか、そうした佇まいが試されている気がする。

「あす世界の終わりがきても、今日私はリンゴの木を植える」という言葉があるが、結局は明日ではなく今日という日を与えられていることを感じて、必要に応じていつものようにに過ごすことが、自然体ということなのかもしれない。