だんだんと紫陽花の色が濃くきれいになってきました
今は梅雨の中休みのようですが、もうすぐ梅雨本番が来そうですね
皆様いかがお過ごしですか?
先日熊本城へ行ってきました
熊本城は日本三名城の一つとされ、一大名の城としては日本一との評価があるそうです
現在の姿の熊本城を築いた加藤清正は豊臣秀吉の家臣で、秀吉に可愛がられ清正もこれに応え、
秀吉死後も生涯忠義を尽くし続けたそうです
清正は土木・治水にも長け、城造りの名手といわれた人物で、実戦的な考えで築城しており
その一例が下の写真の石垣です。
この石垣は武者がえしと言われ、石垣の下部分は緩やかな勾配ですが
上に行くほど傾斜がきつくなって敵の侵人を拒みます
石垣の上には幾つもの櫓(やぐら)を築き、敵に矢や鉄砲を放つために小窓の「狭間(さま)」や、
石を落とす「石落とし」を設けて砦としての役割を担っていたそうです
他にも天守閣は武器庫の機能をもっていたり、のちに増築された小天守には、
1階の下部分と石垣が接する所に鉄串を下方向に向けて並べる「忍返(しのびがえし)」を施し、
強固な防御態勢を敷き、地下にはかまどや丼戸も設け、万一の籠城に備えたようです
清正がこれほど戦さに備えた城を造ったのは、豊臣家の恩義に報いるためとの説があります
秀吉亡き後、徳川側についた清正でしたが、もし豊臣家が蜂起する場合は秀吉の息子・秀頼を熊本城に迎え、
徳川側に背く覚悟があったのではないかというのです
ところが、清正は50歳で病死。その4年後、豊臣家は大坂夏の陣で破れてしまいます。
結局、熊本城が戦いの場となることはなく、明治時代に廃城となるまで平安な時代が続きます。
熊本城が「不落の名城」の名を揺るぎないものにしたのは、明治10年(1877)の西南戦争の時でした。
鹿児島で挙兵した西郷隆盛率いる1万人以上の薩摩軍は、熊本鎮台が置かれた熊本城を総攻撃します。
熊本城は原因不明の出火で天守閣や本丸御殿などを焼失しましたが、
わずか3000名の兵で薩摩軍の猛攻撃に耐えて52日間の籠城を遂げ、
ついには薩摩軍を敗退に追いやりました。
西郷隆盛はこの時、「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」といったそうです
築城270年目にして、城はその機能を実証したのです
こちらの写真は天守閣からとった写真です。
緑に囲まれ、とても美しい景色で清々しい気分になります
桜の名所で日本100選にも選ばれているので、春はまた違った景色が楽しめそうです。
目の前にみえる建物は宇土櫓といって西南戦争で焼け残った櫓で第三の天守とも言われているそうです。
なので築400年…!!
凄いの一言です
宇土櫓の中は殺風景で飾り気一つなく急な階段と、板張りの廊下があるだけなんですが、
ここを昔の武士や清正が実際に通っていたと考えると、とても感慨深い気持ちになります
ちなみに熊本城にはおもてなし武将隊なる方々もいらっしゃり、日に何回か演舞を行っているようです
こちらも行かれた際は是非ご覧ください
最後に…熊本名物馬刺です
美味…
以上熊本城リポートでした