新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代55「立教大学との合同ゼミで完敗」

●立教大学との合同ゼミで完敗

 昭和61年の春。客員教授としてドイツの大学に赴任されていた関係で一年の空白があった新潟大学経済学部の鈴木辰治教授のゼミも、復帰から2年目となり、私を含む4年生12人と3年生8人のゼミ員が20人も揃ったということで、何かこの年としての目玉イベントに取り組もうということになった。
 自分たちで課題を決めて研究して発表するといった程度では盛り上がりそうにないと話し合っている中で、教授からの助言を仰いだところ、過去に他大学の経済学部との合同ゼミ討論会を催していたことを聞き、それは面白そうだと、4年生の男子あたりはにわかに活気づいてきた。
 さりとて全く縁のない大学に申し入れるのもどうかと思案していたところ、久々の取組みだから教授同士が知り合いの間柄が良いのではないかということになり、鈴木辰治教授の恩師の水戸公教授が受け持つ立教大学経済学部に打診してみることに。
 教授同士が電話一本でやりとりした結果、立教大学側も快諾ということになり、あれよあれよと7月頃に新潟市内に立教大学経済学部の水戸公ゼミをお招きして、合同ゼミ討論会を開催することとなった。
 偏差値による大学の値踏みが既に定着していた当時、早稲田や慶應となれば大いにビビるところだが、立教くらいなら相手とするに丁度よいのではないか…。そんな感じで我々は割と余裕感を持ってしまっていた。「日本的経営の課題と今後のあり方」といったテーマ設定であったと思うが、これまでゼミで読んで議論してきた内容を振り返って臨むものとし、改めて特段の準備をするということまではしなかったのだ。
 ところが、当日、立教大学水戸公ゼミ側学生の宿舎を兼ねた新潟市中心部の旅館の大広間で、彼らと面と向き合い議論を始めると、我々新潟大学鈴木辰治ゼミはやり込められるばかりの展開となった。思い返せばディベートと呼ばれるものを体験したのはこの時が初めてだったかもしれない。相手方は皆が相当な手練れであった。さすが都心で揉まれている学生たちだ。呑気に性善説的な論理一本で構えていた田舎大学生の我々は、二の矢三の矢に抗弁する準備も材料も持ち得ておらず、精一杯繰出す薄っぺらの知見のみでは論破に論破を重ねられてしまうばかりだったのだ。
 またしてもゼミ長として何らゼミを導いてこれなかったことが露見し恥じ入るばかりの一日となった。新潟大学に先に入学した5歳年上の兄から大学生の学業や生活ぶりを聞きかじる中で、全て知ったような気になって舐めてかかってきた3年半が総括され、天罰よろしく雷に打たれたかのように打ちひしがれる私だった。
 我々を信じて合同ゼミ討論会の準備を任せてくれた鈴木辰治教授の顔に泥を塗ってしまった。こともあろうかその恩師の水戸公教授を前にしてだ。その晩は、勝利に意気揚々とする立教大学の学生達との懇親会を我がゼミの宴会盛り上げ上手達に任せて、そこそこに私は逃げ隠れたくなったものだ。
 この時の痛恨極まりない思いは、その後に就職して以降もずっと、イベントの準備など小さなものであっても軽んじて怠ることがないように心がける戒めとして、胸をチクチクとさすように心に残り続けている。

(「新潟独り暮らし時代55「立教大学との合同ゼミで完敗」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代56「大学最期の打ち上げは晩秋の秘湯宿」」に続きます。)
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