新潟久紀ブログ版retrospective

農政企画課2「112もある市町村の報告集約にてんてこ舞い」編

●県内市町村数112(当時)のうち111分の取りまとめ??量的にキツイ

 それでも、本年度に取り組む内容が取りまとめられた当初予算は成立したばかりであり、企画業務は一息ついていて、4月は実務を習い覚える"助走期間"にあてられるのでは…などと少し呑気に考えていたが…甘かった。4月早々、昨年度末までに完了した各種事業の審査作業を短期間で処理しなければならないという。
 そうだ、私がこれまで唯一経験した県本庁は企業会計だった。民間企業では当たり前なのだが、会計処理は「発生主義・複式簿記」であり、執行内容は月単位で都度整理されていて、極論すると決算はいわば単純な次月分の積み上げ作業でしかなくなる。
 ところが、初めて経験する役所の一般会計では「現金主義・単式簿記」といわれるもので、"お小遣い大福帳"よろしく、年度を一旦締めたあとに諸々の一年分の決算事務を一気呵成に行う。その期間が「出納閉鎖期間」と呼ばれるのだが、出先事務の締め切りはシステム的に4月30日厳守。ましてや何もかもが初めての新任者にとって全く時間的余裕がないのだ。
 しかしながら、県庁では「主任副任」制度がとられている。どんな事務も担当者に加えてサポート・バックアップの役割が別職員に充てられているのが普通だ。係長以下3人の係なので、私の事務の副任は例の"仕事人主査"となる。事務の初度から疑義につまずいて教えを乞いながら進めていこうと主査に聞くと、「それは事務屋の仕事だから良く分からんので、課内の他の係の事務屋に聞いてくれ」というから驚いた。
 「係長は全体総括とか議会対応という立場になるので、残る実務者が2人しかいないこの係で主任副任制度は実質ムリなわけ。あんたも俺の担当事務の副任とは言え出来ることはないだろう」と主査。確かに、主査の事務分掌をみれば小難しそうな見慣れない農業政策に関する専門用語が並んでいる。自分のサポートを願う一方で見返りを施せないならそれは単に甘えということなのだ。
 ガツンと言われて課内の事務職に訪ね歩くと、今の私の事務に以前関わっていたり、実績処理に関する勘どころを持っている職員が居てくれて、事務の作法や進め方などを親切に教えてくれた。このことばかりでなく、他の仕事も重ねる中で、この課は係を越えて相互に知見をやり取りしながら仕事を進める場面がよく見られることに気づき始めた。農業専門職は基本的には、出先機関も含めての農林水産部という限られた部門の中で異動しているが、課内や部内の課間での異動も多い。近くにいる者同士でお互いに過去の業務経験や知見を供与しあうのを当たり前とする風土があるように思えた。
 良く下調べもせず、自分の頭で考えないままで同僚に教えを乞うのは良くないが、より効率的に仕事を進めるためには関係者の知見を上手に活用すべきという認識を、いまさらながらに新たにしたものだ。新採用の初任地では係長が毎年替わるという異例のドタバタの中で、好む好まざるに関わらず"個人商店"的な仕事になりがちのまま任期を終えたため、組織として当然の立ち振る舞いを備える状況にはなかったのだと思い返す。
 主査に言われて課内外に知恵を乞うことは多かった。事務屋のみならず、技術屋の元に行かされることも多かった。農業職の人達はそもそも専ら農業施策に関わってきているわけで各種業務や業界事情等を熟知しているから、異動の度に全く知らない分野に放り込まれてピリピリしがちな事務屋と比べて、皆どこか余裕感があり、対応も親切丁寧で都度大いに助かった。後から思えば、全くの新入りの若造に、早く"人のネットワーク"を作って楽になれという主査の計らいだったのかもしれない。
 作業ごとに内容や進め方は順次理解できたが、一つ一つが一々膨大な作業量であることには閉口した。当時は"平成の市町村大合併"以前であり、新潟県内には市町村が112あった(令和2年12月現在は30市町村)が、私が仕事の対象とする農業振興地域を持つ市町村は粟島浦村を除く111もあったのだ。4月の短期間で事業実績の精査を必要とする当課からの補助金交付先は111市町村の全てであり、どんな作業をするにも111の文書や資料を一つ一つめくっていく。それに加えて、各々の書式と記載内容が異常なまでに細かく、目を通すだけでも辟易とするのだ。
 市町村からの実績報告書は、個々の補助事業区分ごとに別立ての文書で提出されてくるので、関係資料も合わせて束ねると厚さ10㎝ほとのファイルにして4~5冊ほどになった。さすがに、作業期限を考えると処理は定時では間に合わない。4月1日転入の翌日から、22時ほどに及ぶ残業が始まった。
 残業漬けの毎日は4年前の本庁勤務時代への逆戻りにしか過ぎないのかもしれないが、この間の3年間、出先事務所でほぼ残業ゼロの生活をしていて、一旦"まともな暮らし"に馴染んでしまった私に、あの頃の体力は即座には戻ってきてくれなかった。ある日の21時も過ぎた頃、横で煙草を燻らせながら(当時は執務室で喫煙できた)自らも黙々とワープロを打っていた主査は、へたり始めていた私に慰めとか励ましの声でも掛けてくれるのかと思いきや、「忙しいよな…。でも"生きてる"って感じがするろぉ…」とぼそり。
 嗚呼これこそ本庁残業体質だ。働き続け、負荷を増し続ける中で、それが"自分は役に立っている"という思いに通じて自己肯定感が高まり、アドレナリンだかドーパミンだか大放出で何時まででもいけますよと頭の中がハイになっていく…。
 夜遅く仕事を切り上げて県庁を後にするときに庁舎を見上げると殆どの窓は暗くなっている。たまに同期採用の者と廊下であったりして聞くと、本庁でも「定時上がりだよ」などと言う者も少なくない。自らの希望にも叶う異動であったが、新採用の職場と同様な過酷さであることを赴任して初めて知るは自らの下調べ不足だったなあ…と、諦めなのか後悔なのか分からないため息がもれた。仕事の中身というより量の膨大さにヘコんでしまったのだ。


(「農政企画課2「112もある市町村の報告集約にてんてこ舞い」編」終わり。県職員3か所目の職場である農政企画課の回顧録がまだまだ続きます。)

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