●集い易くて騒いでも苦情の無い有難さ
来客の出入りが自由なアパート暮らしになると、たまには新潟県庁同期採用の友人たちが遊びにくるようになり、五、六人集まれば当然酒宴になる。
部屋の両隣や下の階の住人達がどの程度の騒がしさで反応してくるのかは、オーディオの音量の上げ具合などで探っていたのだが、壁の薄い安普請で大きな音が筒抜けの構造の割には、結構な音量を出しても苦情の申し入れなどは全く来ることが無かった。
賃貸契約時に仲介の不動産業者から、このアパートの空き部屋はここだけと聞かされていたので、住人は居るはずなのだが、あまり生活音も聞こえてこない。そういえば業者は、立地の関係で水商売勤めの若い男女の入居が多いと言っていた。私が昼間の仕事を終えて帰宅してから夜間に音楽を楽しむ時分には、多くの住人が夜の勤めに出ているということなのかもしれない。いずれにしても都合の良いことだ。
それでもある日の深夜に、私が愛車の駆動輪をアパート前の砂地のくぼにはめてしまい脱出のためにタイヤを空転させていると、音を聞きつけた住人達がワラワラと出て来て車を押し上げる手伝いをしてくれた。人の好さそうな若者が多いことを有難く思うと共に、オーディオの音量などで迷惑かけないように気を付けようと思い直した。
立地と言えば、同僚などが集まるにも都合が良かった。信濃川の河口から5~6kmほどの上流に掛かる昭和大橋のたもとに位置する水明荘は、川沿いに新潟駅まで約2km徒歩20分程度であり、橋を渡れば対岸に新潟市の繁華街古町がすぐそこで、市内どこに行くにもバスの利便も良い。車も近くの空き地に停められたので、酒飲みに集まり易かったのだ。
昭和62年の当時はまだネットやDVDなど映像メディアが発達していなかったので、オーディオでFMラジオか何かをBGMにしてワイワイ飲むという感じだった。各々がそれなりに苦労して県職員に就職できたばかりで開放感があったし、皆独身ながら自宅通いも多かったので、学生時代の延長のような感じで飲んで騒げる私のアパート部屋は重宝されたのだ。
騒いだ翌朝など寝坊すると、職場のある新潟県庁まではこれも2kmほどで徒歩20分程度ではあったのだが、新採用の時分から遅刻はできないと、オンボロ愛車を飛ばして5分くらいで出勤したものだ。
当時は県庁舎が市街地中心部から工場団地の跡地に移転してきて間もなかったので、周辺に穴場の空間などもあり、車を停めおいたりできたのだが、次第に土地利用が厳格化していき、無料で自由に停め置ける空間は早々に無くなってしまった。何のことは無い、早起きすれば良いだけの話なのだが、若いころは就寝時間は遅く、朝起きるのも遅かった。毎日6:00前に起きて7:00前には出勤することがルーティーンとなって久しい令和4年の今からは考えられないルーズな時間感覚だったのだ。
(「新潟独り暮らし時代68「集い易くて騒いでも苦情の無い有難さ」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代69「衝撃の瞬間。屋根が飛ぶ」」に続きます。)
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