●覚醒の日が来た(その1)
昭和半ばに柏崎市立比角小学校に通っていた時分というのは、地元の会社社長の御子息御令嬢といった富裕層の同級生はともかく、私が日々つるんで遊ぶような連中は塾通いなどなかったので、授業が終わると毎日校庭で遊び、退校時間の音楽が流れてもなお明るい夏場であれば、そのまま校外の近くの公園に移動して草野球をやるのが定番だった。
屋外校庭での遊びといえば、級友数人と早い者勝ちで確保した区画を四角く線引きし、テニスコートよろしく真ん中に線を引いて二陣に分かれ、ドッジボールで使うゴムボールをテニスと同じようなルールで腕で撃ち合ってポイントを競い合う遊びが学年問わずに大流行していた。基本的には2~3人ずつで敵味方を組むが人数が多くても出来るもので、ワンバウンドでやるバレーボールみたいになることもあった。
その遊びをどのように呼称していたかは思い出せず、最近も当時の同級生にLINEで尋ねたが誰も覚えていない。連日のように皆が遊んでいたにも拘わらずだ。不思議なものだ。
その”不思議な球技”は学年問わずにあまりの流行り具合だったので、クラス対抗の学内公式イベントまで催されていたように覚えている。まだ半日授業があった土曜日の秋の日の午後、板張りの体育館の中でカラーのテープを張ってコートを2面ほど作り、教諭が審判までしてくれていたと思う。コートの周りを大勢の児童が観客となって取り囲んで声援をするものだから、それが反響する体育館内の高揚感は相当なものだった。
トーナメント方式で勝ち上がった4年生の我がクラスは、運動神経の良い面子に恵まれていて競合といわれた同学年の某クラスと何回戦かでぶつかり、級友は男子も女子も負けまいとえらいエキサイトしていた。
私は、早生まれの身心の発育の遅さでぼうっとしていたし太り気味ということもあってクラス内外から愚鈍な類と思われていたのだが、級友は思いやりのあるいい奴が多くて、こうした運動神経の良さが求められるイベントにも仲間にしてくれたものだ。しかし、私のドンくささを皆がフォローして勝ち抜いてきたのもここにきていよいよ限界のようで、いよいよあと一点先に取った方が勝ちという段になった。専ら俊敏で動きの良い男子と女子による攻防が突き詰められた挙句、相手方のポイントが判定されてゲームセットとなってしまった。
ところが、私達には相手チームの女子が何か反則をしていたと見えていた。内容は忘れたが、級友でリーダー格の男子と女子が猛然と審判役の先生に食い掛っていった。それでも判定は覆らず、われわれは釈然としないまま敗者としてトーナメントからの離脱を余儀なくされたのだ。
(「柏崎こども時代25「覚醒の日は来た(その1)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代26「覚醒の日は来た(その2)」」に続きます。)
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