●2花ぞの幼稚園を脱走
昭和40年代半ばの頃、私は幼稚園をどうして嫌いで仕方なかったのか。大人になって母から聞くと「同じ組にいた他の子供たちの幼さが嫌だったようだ」という。私はいわゆる年度末ギリの早生まれなのだが、定員の関係なのか、幼稚園では学齢としては一学年下の幼児達に組み込まれてしまったらしく、3歳前後での半年とか一年の成長の差は大きいものだから、赤ちゃんのような連中と"一緒くた"にされるのに耐えられなかったのではないかという。
私の兄は6歳も離れていて、私が生まれながらにして良くも悪くも遠慮なく当たりを強くして相手してくれていたようで、私はそれが普通になっていたところ、あまりに赤ちゃん相手のようにされるのは気に入らなかったのかも知れない。今となっては本当のところは確かめようもないのだが、思い出される保母さんたちとか施設や遊具などに嫌な印象は残っていないので、あながち雰囲気嫌いだったのかも知れない。
幼少のころは比較的静かでぼうっとしていたといわれる私であるが、意外にも幼稚園児にして反骨の魂を持っていたと思しきところがあった。なんと、毎日のように幼稚園で「脱走騒ぎ」を起こしていたのだ。これは良く覚えている。
幼稚園の時間割の中で、園庭に出て砂場や遊具で遊ぶ時間になると、幼児達が入り乱れて騒いでいる中では一人一人を目で追いきれなくなるだろうと幼いなりに考えて、スルリと園の門から外に逃げ出していた。今ではどうか分からないが、当時は大らかで、幼稚園の門などは何時も開いていたし、門外となる園舎の周りくらいに出張って遊ぶ子供も半ば容認されていたように思える。
そんなゆるい環境の中、私は確信犯として門を飛び出して、嫌で嫌でたまらなかった幼稚園から一人で1km離れた自宅に一目散で帰ろうとしたのだと思う。しかし、”天網恢恢にして疎にして漏らさず”というべきか、気づきまいと思っていた担任の保母さんは、尋常でない私のダッシュぶりを見逃さず、直ぐに追いかけてきた。そうして毎度必ず、幼稚園の門から出て小路の向かいにある「金刀比羅宮」の境内に入って少しの所、せいぜい行けても子供心を怖がらせるような”江戸獅子タイプの狛犬”のあるところまでの20mくらいで”捕獲”されてしまうのであった。
捕まった時に私はどうであったかは定かでないが、泣き声を上げて騒いだというよりは押し黙ってうなだれていたようだったと覚えている。どこかで簡単に成功するわけはないという意識があって、何度かやっているうちにいつかという気持ちだったのではないか。
ただ、殆ど毎日のように”脱走”していると端からマークされるようになってしまい、門から出て行き着ける地点は本人の意に反してどんどん短くなっていたように思える。さすがに一年も過ぎるころにはもう諦めてしまったに違いない。祖母が早く迎えに来ないかと祈るばかりになっていったのだ。
令和の今、育児支援する二歳児を連れて公園など行くと、私が幼稚園児の時のような年頃の男の子が遊んでいる姿を見て、当時の私は必死でも大人の保母さんからすれば他愛のない”脱走騒ぎ”だったのだろうと思う。それにしても、監視をすり抜けたまま大通りにでも出れば車の事故に巻き込まれていたかもしれないし、幼稚園の近くはあの蓮池さん夫妻が拉致された砂浜の近くでもあり幼子が一人でふらふらしていたら…など今から思うとゾッとするところでもある。
そう考えると私を生き永らえさせてくれた保母さん達にお会いしてお礼やら当時の思い出など聞きたいものだが、長い年月が過ぎ私も遠くの地で暮らす身でそれは叶わないだろう。
しかし、大人しげに見える私が驚くことをしでかしたのは幼稚園の可愛らしい脱走騒ぎだけでは終わらなかった。一つ間違えば本当に生死を分けることになりかねないような”大事件”を引き起こすことになるのだ。
(「柏崎こども時代2「花ぞの幼稚園を脱走」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代3「警察に保護され母を呼び出す(その1)」」に続きます。)
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