●幼稚園通いの憂鬱
おおよそ人の記憶というのは3歳頃のものからおぼろげに思い出せるものではないだろうか。
今に残る私の原初の思い出は、とにかく幼稚園に行きたくなかったという感情だ。
両親とも共働きだったし、ただ一人の兄弟である兄も6歳も年上で既に小学校に通っていたので、平日の毎朝、皆がバタバタと出勤なり登校した後のゆったりとした時間に、残る唯一の家族である祖母にあれこれ仕度を手伝われて、幼稚園に登園という日々だった。
いっそ慌ただしさの中で両親や兄と出発してしまう方が弾みがついて良かったのかもしれないが、当時の住まいが通りから畑や住宅地に少し入り込んだ位置にあって静寂がちな中で、しかも「おはようこどもショー」だったか、子供向けの番組が流れるあの独特のまったり感において、もはや元気はつらつと家を出ていこうという気にはなれなかったのだ。
祖母は出自の家系的な経緯もあって、精神薄弱とまではいかないが、どこかぶっきらぼうで浮世離れした紙一重感覚の人だったので、幼稚園行を渋る私を要領よく宥めたりすかしたりすることなどできず、定刻になると「さ、行きますよ」と淡々と声を掛ける程度だったから、なおさら私は気持ちを前向きにすることはできなかった。
全く抑揚の無い日々同じ時間帯を過ごす中で、大嫌いな幼稚園へのカウントダウンは、毎日きっちりと同じ時間帯に放送される子供向けのある番組の、特に画面の時刻表示をぼうっと眺めていることであり、そして「また見てねー」的な番組のエンディングが私にとっての"処刑執行"の合図のようであった。
入園して最初の頃は訳も分からず言われるがままに通っていたようだが、自覚的な認識が定かになってくるに連れてなのか、日を追うごとに登園が嫌になっていったように覚えている。家を出る合図のようになっていたテレビ番組は、特撮で有名な円谷プロがチープな予算で仕上げていた「チビラ君」という着ぐるみによるハチャメチャな宇宙人家族のSFコメディードラマであり、その奇想天外さというかアナーキーさというか、着ぐるみの見た目の怖さというか、どことなく大人びた雰囲気に浸っていると、このまま一人静かに空想の世界を広げていたいような気持ちだった。
しかし、その番組が終わると祖母は淡々と私の手を引いて出かけ始めてしまう。その黙々とした冷淡さが逆に抗おうとう気持ちを消してしまう。毎日が絶望的な気持ちだった。
当時の自宅からでると、朝の8時近くでは小中学生の通学はもとより、私の母を含め近辺に住む多くの人たちが通うことでこの街を「城下町」と言わしめている大きな金属加工工場「リケン」の社員達の通勤ラッシュも終わっているので、とにかく閑散と静寂のみの歩き道であった。天気や道端の花などに触れて話をするでもない無言の祖母に手を引かれていると、それは1km約20分程度であったのだが、齢3歳にして、さながら死刑台への凍えるような一本道を引き回されているようだったのだ。
当時は地獄への入口のように見えた「花ぞの幼稚園」の門構え。そこで送ってきてくれた祖母と別れる時、私は毎日必ずか細い声で「早く迎えに来いっ」と言っていたという。幼子のそんな姿を不憫に思うでもなく踵を返して離れていく淡泊な祖母の背中は、直ぐに遠く小さくなっていったのだ。
(「柏崎こども時代1「幼稚園通いの憂鬱」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代2「花ぞの幼稚園を脱走」」に続きます。)
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