新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代75「最初で最後の冬は凍結地獄」

●最初で最後の冬は凍結地獄

 雨漏り被災の見合いで家賃免除の生活が始まったものの、時期は12月に入り、冬本番に向かう季節。「水明荘」で暮らし始めて初めて迎える新潟での一番過酷なシーズンを、未だ屋根がブルーシートで覆われて抜本的補修の日程が知らされず、屋内の天井にも万が一のための雨漏りよけとしてビニールが幾つかガムテープで貼られている状態で迎えることは、毎晩就寝時にベッドに横たわり仰向けになる度に不安にさせたものだ。
 そして私を悩ませたのが、トラウマとでも言うべき被災の後遺症である。何日かおきに夜な夜な、あの暴風で部屋が大揺れに揺れて屋根のトタン張りがめくれ上がり、雨水が壁伝いに流れ込む状況を夢で見てはうなされて目覚めるということが続いた。大人の男がそれくらいの体験で情けないと言うなかれ。私自身、それほどの惨事だという意識は無いつもりだったのだが、今までない経験が深層心理に影響を与えていたのかもしれない。水明荘にいた残り数ヶ月間はもとより、その後も数年間、時折うなされていたことを思い出す。
 その年昭和62年、1987年の冬は、新潟市内は大雪というほどでは無かったが、例年寒さが最も厳しくなる1月の半ばあたりでは、街中の大通りも圧雪で凍結する日がしばしばあるような、新潟の冬らしい状況になった。その数年前の大学1から3年生まで毎年経験していた豪雪に比べれば全然たいしたことが無い程度だと感じていたので、屋根に不安を感じながらの生活では少し気持ちは楽だった。改修が間に合っていない屋根が大雪でつぶされでもしたら、いよいよ避難生活を余儀なくされるのだから。
 雪の重みにばかり心配していた私は迂闊だった。信濃川の川縁に立つこのアパートが、冬の北風に日々晒される中で想像以上に冷え込んでいくことに頓着が足りなかった。アパート周辺の道路が真っ白になるような1月下旬のある日、朝の明るい日差しが入り込む東向きの台所の混合水栓をヒネると水が出ない。一晩で水道管が凍結したのだ。朝日に照らされる向きだったのが油断させていたようだ。天気の良い日は放射冷却も強いということを思い起こすも”後の祭り”だった。
 顔も洗えないがトイレの水は流れたので取敢えず身支度して部屋を出ると階段は凍ってツルツル。手すりも触ると皮膚がへばりつきそうなくらい冷たい。川端の吹きさらしという立地はかくなるものかと痛感する。その後住まいの特に立地を検討するにあたり、この時のことが教訓となったことは言うまでも無い。新潟では河川岸に住むのはキツいなあと思い知ったのだ。
  その日に職場の同僚とそんな雑談をしている中で、凍結した水栓を開けっ放しにしておいて忘れてしまうと氷が溶けた後の水道使用量がハンパ無いという話を聞いた。ハタと思い、終業と同時に職場を飛び出して帰宅してみると、案の定、ドアの外から聞こえるほどの音量で台所の流しの水道がステンレスのシンクをものすごい水量で叩きつけていた。おそらく水道管の暖まった昼前くらいからこの夕方まで大量の水が流れっぱなしだったのだろう。今月の水道料金が心配になる私だった。

(「新潟独り暮らし時代75「最初で最後の冬は凍結地獄」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代76「さようなら水明荘。そしてその後」」がまだまだ続きます。)
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