新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代76「さようなら水明荘。そしてその後」

●76さようなら水明荘。そしてその後
 昭和63年3月に入り、不動産業者に連絡してみると、例の転居先の新築アパートがもうすぐ竣工予定であり、希望なら見学できるというので、もちろん見たいと即答した。家財道具の配置や搬入の段取りを考えたかったのだ。日時を決めて「水明荘」まで迎えに来てもらい、連れて行かれた先は、県庁前の大通りから少し奥まった住宅密集地の中にある、普通の戸建てのような建物だった。先に聞いていたとおり、住居の改築に併せて二階部分をワンルーム4部屋の賃貸しにする建付けだったのだ。
 細い階段を上がると四部屋のドアが向き合っていて、今ならどの部屋でも選んで良いという。最期の仕上げ作業中のようで壁紙の貼り付け途中の各部屋を順に見て回らせてもらうと、窓の向きや室内の設えが一番気に入った部屋に決めさせてもらった。
 不動産業者と入居の日時について打合せして水明荘に戻り、月末からの新たな住まいが決まって、ここでの残り少ない日々を考えるとしみじみしてきた。就職して二ヶ月で職場からあてがわた寮から出て、自分で景色の良さと立地の便利さに惚れ込んで決めて住み始めた「水明荘」であったが、魅力有る物件の筈なのに何故空き部屋となっていたのか。
 新潟では珍しくない秋から冬にかけての暴風においては、結果して屋根が飛ぶほどの安普請であり、寒波が来れば水道管が凍結してしまいがち。今になってみれば、”売れ残り”もさもありなんの思いだ。それでも、窓の直ぐ下に信濃川の大河の流れを見るようなロケーションというのは、そして、対岸に街路樹や文化施設などの明かりを眺め、その照り返しを水面に映し見るビュウというのは、このアパートをおいて他にあるまい。私はこの部屋での最後の日まで可能な限り、煙草でも燻らせながら、ウイスキーのロックでも傾けながら、頭の中を空っぽにして、窓からの景色を眺めていた。
 そんな印象深いロケーションから、暫くすれば強固な鉄骨造以上のアパートに建て替えられて人気物件へと変貌するのでは。私は、水明荘から転居した後も、市街地中心部に車で出掛ける時などはその前の道を通ることが度々あったので、関心を持って推移を見守っていた。
 しかし、直ぐにバブルと呼ばれる時勢となって、私が思う以上にその地に開発がもたらされ、「水明荘」の敷地は河川沿いを走る都市計画道路の用地となり、あっけなく更地となってしまったのだ。
 その後に整備された道路は、令和の今日に至るまで住むこととなる県庁の周辺から新潟市最大の中心市街地である万代地区へ、更に信濃川河口にある佐渡汽船乗り場までを一直線でつなぐ信号の少ないルートとなったので、頻繁に通行することになるのだが、いまだにその付近に差し掛かると、夜半の暴風で屋根が飛び、オンボロ愛車で雨中を彷徨い、一宿一飯の恩義に涙した新採用初年度のあの頃が思い出され、何やら胸が少し熱くなるようなのだ。
 〓水明荘おわり〓

(「新潟独り暮らし時代76「さようなら水明荘。そしてその後」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話がまだまだ続きます。)
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