●音楽班に入る(その3)"意外なドラム登用"
「音楽班」入部といっても小学5年生になるまで習い事などでの楽器経験の無い我ら同級生3人組は、放課後になると小学校の音楽室で楽器を抱えてオーケストラとして曲目の練習に励む学友達に仲間入りすることができないまま、別の空き教室や屋外階段の踊り場などで金管楽器練習用のマウスピースを口に「ブゥーブゥー」と情けない音を出しながら吹き続けることが来る日も来る日も続いた。
今から思えば、格好だけに魅かれて入部してきた我々男児3人が厳しい下積みを経験している間に嫌になって辞めていくだろうと担当教諭は考えていたのかもしれない。”いじめ”ということでなく身の程を思い知らせる”適切な諭し”というのは、特に小学生くらいの頃には重要な事だと思うので、当時の教諭を恨めしく思ったことはないが。
そんなある秋の日の夕方、音楽室となりの空き部屋でブゥーブゥー鳴らしている我々3人衆の前を、誰に向けるでもなくブツブツと独り言をいいながら、担当教諭が譜面か何かを探しに通りがかった。
「…太鼓を叩ける者はいないかな…」と私の耳に入ってきたので、私は反射的にマウスピースを口から外して「僕ができますよ」と言ってしまった。ええっと言う感じで教諭は立ち止まり「本当に?」とその眼鏡の奥から疑心が子供の私にもはっきりわかる表情で私に向き直ってきた。
しかし、その時の私にはなんとなく自信があった。6歳も上で高校生になっていた兄はその頃に洋楽好きになっていたのだが、当時の狭い家で兄弟部屋は一つで、そこにオーディオセットもあり、私が居ようが居まいがデカい3wayスピーカセットでビートルズやらレッドツェッペリンやら聴いていたので、私も自然とビート感覚が身に馴染んでいた。何か考えたりするときには自然と指が4ないし8のビートを軽く叩くようなクセがついていたのだ。
いかにもダメ元で一応という感じアリアリの教諭は、マーチングバンドというかいわゆる鼓笛隊で児童が使うスネアドラムの親戚みたいな直径30cm弱位の太鼓とバチを一セット私の前に持ってきて、「どうだ、できるか」と促してきた。譜面はもとより合わせるメロディも無い中でということなので、私は普段聴いていたアップテンポの洋楽を頭に浮かべてバチ(スティック)を数十秒ほど叩いてみた。思いのほか子気味良くリズムを刻めたと我ながら得意顔になってしまった。
「意外にもコイツは使えそうだ」。またも正直者の教諭はそんな表情になり、私はそのまま教諭につれられて音楽室でマーチ演奏の練習をしている面々に合流させられた。予定していた太鼓担当の児童が転校するか何かの事情でチームを離脱したらしく、私がなんとかその穴埋めに出来そうで助かったといった事情が、リーダー格の児童と教諭が話すやりとりの中で分かった。
かくして、音楽班”最下層”のマウスピース吹きから、太鼓一つのアドリブ一発で"上級児童"の集まりである楽団に仲間入りできた私は、もう間近に迫っていた校内行事でのマーチングバンドの応急隊員として、皆との遅れを取り戻すべく太鼓打ちの猛練習に励むこととなった。
見回すと、アコーディオンやクラリネット、トランペットやホルンなどを抱えるメンバーは、男女ともに同じ年頃の児童とは思えぬ上品さというか大人っぽさを漂わせていた。知っている顔ぶれを見て考えると、彼らの大抵は会社の社長の子女や子息であったり教師の子であったりと、経済的に裕福か文化的な嗜みに生まれた頃から親しくする人たちなのであろうと思った。貧民家庭でのガラッパチ育ちの私は場違いな雰囲気を正直感じていたが、何か背伸びして一つ上に行ってみたいような気持が屈託なく沸き起こってもいたのだ。
付け焼刃ではあったが、マーチングバンドの本番を何とかそつなくこなす事ができた私は、「君はある程度の信頼を得たよ」という感じが漏れだす正直者の教諭の表情に安堵すると、達成感のようなものが心中に滲み湧いてきた。未経験のド素人であっても吹奏学部の門戸を叩いて良かったと思った。最初の下積み練習に腐って辞めずに良かったと思った。
これ以降は鼓笛隊的な太鼓を叩く行事は無いそうだ。いよいよ本来の目的であるオーケストラ演奏について、どの楽器で取り組もうか教諭と相談していくことになった。
(「柏崎こども時代33「音楽班に入る(その3)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代34「音楽班に入る(その4)」」に続きます。)
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