新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代66「新部屋は眼下に信濃川の眺め」

●66新部屋は眼下に信濃川の眺め

 昭和62年5月の最後の週末。2か月足らず過ごした新潟県職員の単身者用の宿舎「文京寮」からの退去の日がやってきた。引っ越しといっても、狭い四畳半一間に置いていたものは、布団一組に仕事用のスーツ2着を含めた僅かな衣類、身支度道具と数冊の書籍や資料を整頓していた小さな書棚、最低限の食器やラジカセ程度であり、それらは布団袋一組と段ボール箱2箱程度にまとまったので、寮の玄関前にオンボロ愛車の三菱ランサーEXを止めると積み込みは一回で終わった。
 寮の土日は管理人が不在で、短い期間で親しくなった僅かな住人も帰省していたので、誰に退去の挨拶をするでもなく、淡々とした思いで車を発進させた。歩きで通いなれた県庁横の千歳大橋を通って信濃川を渡り、右岸沿いの道路を新潟駅方面に向かう。出発してから約5km、10分ほどすると新潟市上所というエリアにある新たな住処が見えてきた。昭和大橋東詰めの直ぐ脇にあって信濃川右岸の岸辺から河の水音が聞こえてくるほどのほんの数メートルの近さに建つ木造二階建ての古いアパートは、そのロケーションのとおり「水明荘」という名称だった。
 アパートは河川敷に建っているような感じで、進入路は未舗装であり、敷地としてきちんと管理がされていないようで、辺りの空き空間に無造作に車が止められている感じだった。水明荘の住人のものか、信濃川河口に停留してあるプレジャーボート持ちなどが船に乗り換えるために車を停めているか、そんな雰囲気だった。令和の今日では考えられない大らかな土地利用だったので、私も気兼ねなくアパートの前にオンボロ愛車が停められた。
 外付けの赤く錆びた鉄製階段を上るとギシギシという音とともに揺れを感じる。このアパートが相当の年代ものであり、また、信濃川沿いで遮るものが無いので2kmほど先の日本海からの潮風で強か錆びついているのだろうなと思わせた。ふと気が付くと、屋根は瓦ではなくトタン葺き。よくよく見ていくと建物の造りは非常に安普請だ。アパート探しの時は、この物件の二階の窓から真下に眺める信濃川の悠々とした流れに魅了されてしまい、その他の部分は全く吟味せずに即決したものだった。その浅はかさに一抹の不安がよぎった。
 それでも、不動産業者から契約時に受け取っていた安っぽい鍵をまわして、203号室のドアを開ければ、玄関から直ぐの狭い板張りのキッチン奥の引き戸の開いた向こうにくだんの窓があって、まだカーテンが付けられていないため、向こう岸まで200mくらいある広大な信濃川の流れが、なんの遮りもなく目に飛び込んできたので、ネガティブな意識は頭から吹き飛んでしまった。
 私は生まれ育った家も冬の吹雪になると隙間風が入ってくるような建物だったし、高校生のころに引っ越した先も築半世紀近い木造の古屋だったので、住まいの古さや建付けに特段の好き嫌いを持つような志向は培われてこなかった。ただ身体が小さくはなかったので、自分の部屋は最低でも六畳は必要ということと、大学時代のアパートで遠く日本海を眺める良さを経験したので、窓からの景観を重視するくらいだったのだ。
 引っ越した日は、梅雨入り前で爽やかな風がそよぐ晴天であった。夜ともなると、窓からは向こう岸にある公共施設や街路灯の明かりが暗く広い信濃川の水面に揺らいで反射するのが見えて、絶景としか言いようのないものであった。
 「こんな最高のロケーションを毎日楽しめる」という高揚した思だけで船出をした「水明荘」暮らしであったのだ。

(「新潟独り暮らし時代66「新部屋は眼下に信濃川の眺め」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話が「新潟独り暮らし時代67「自分好みの生活空間の復活」」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。
https://twitter.com/rinosahibea
☆新潟久紀ブログ版で連載やってます。
 ①「へたれ県職員の回顧録」の初回はこちら
 ②「空き家で地元振興」の初回はこちら
 ③「ほのぼの日記」の一覧はこちら
 ➃「つぶやき」のアーカイブスはこちら
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「回顧録」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事