新潟久紀ブログ版retrospective

仕事観の形成と就職するまで編2「高校生バイトが原体験」

<仕事観の形成と就職するまで編2>--------------------------------
●県職員を目指す根源は…「高校生バイトが原体験」

 「農政企画課」への配属を希望した理由については、大学生時代に将来の進路を考えあぐねていた頃に遡らなくてはならないが、根幹をなす職業観については、それより更に前の高校生時代のアルバイト経験まで思い出すことになる。"時を戻そう"。
 父は地元で個人が家族中心に経営する自動車修理販売関係の事業所で営業職として、母は自動車のエンジン部品製造で世界的なシェアを誇っていた大規模鉄工所で工員として、各々が勤める共働き世帯であった。高度経済成長の下で自動車関連産業が絶好調の中、父はゴルフや釣り、競馬など自身の多趣味も活かした接待も含め、平日夜も土日も飛び回っていて家に殆どおらず、母も平日2時間程度の残業や休日出勤もあるほどの忙しさ。なので私は殆ど放任であったが両親の勤勉な姿を見て、仕事に精を出すことが生きていく上で当然のこととして刷り込まれていた。
 母の勤める工場は、市の一丁区画を占めるほど大規模な大きさで、コークスが焼ける匂いもプレス機器の騒々しい反復音も街の活気となっていた。地元周辺ではそこに勤めることがある種のステータスのように語られており、自分もおぼろげにそこが就職先になるかも…などと考えていて、高校1年生の夏休みになると早速アルバイトに申し込んでみた。
 アルバイトの配置場所は、いかにも鉄工所といった感じの錆びたトタン張りとむき出しの鉄骨で囲まれた、バスケットボールでもできそうな体育館程の大きさの一角。黄ばんだランニングシャツ一枚と紺色の作業ズボンに油のシミを随所に付けた中高年の工員が私に作業の手ほどきをしてくれた。瘦せこけているが、肌の浅黒さと鋭い眼光に職人気質を感じさせる雰囲気に、少し緊張したものだ。
 「レシプロエンジンの部品であるピストンリングを揮発油の桶で手洗いする…」。折しも晴天の太陽でジリジリと気温が上がり炎天下で自然発火が起きそうな真夏の午前である、揮発油で満たされた縦30センチ横90センチ深さ50センチほどの鉄製の桶を前にして、これはバイトごときが手を出せる仕事なのか…とビビる。
 それでも、良くも悪くも子供で怖いもの知らずだった私は、恐る恐るではあるが、言われたとおり、直径4~5センチのピストンリングを100本程度を通した鉄の棒ごと、素手で揮発油で満たされた桶に沈めてみた。初めての経験だが、揮発油の中の何とも言えずヒンヤリとした触感に驚く。そのまま鉄の棒の両端を持った手首を回して揮発油の中でリングを躍らせてみる。これは次の製造工程のためにリングを傷つけずに汚れを落とす作業だという。
 作業方法に驚きはしたが、やる事は単純であり確かにアルバイト向きだ。職人から指示されたピストンリングの山を順次洗って、洗浄済みと記されたカゴに入れて台車で次工程の場所まで運ぶ。リングの山には、前工程である"削り"の担当部署から順次運び込まれてくるようになっていて、私の仕事は全体の流れ作業の一部であった。
 真面目だった私は工程を滞らせまいと、リングの汚れの落ち具合をしっかりと確認しながらも早い作業に努めた。なので、洗いを待つリングの山は次第に低くなってくる。そうこうしていると、製造業の現場では、毎日午前10時と午後3時にはベルがけたたましく鳴りわたり、工場全体が一斉に15分程度の休憩時間に入る。
 労働協約や労働組合が何たるかなど全く知らない普通高校1年生の頃である。時間に厳格な休憩と、皆が一斉に一言も出さずに身体を休める姿は、何か戦前戦後の頃の古い映画でも見ているかのような感覚であった。ぼんやり眺めていると、例の指導役の職人が自身の部署から様子を見に来てくれた。職員の栄養補給に支給される牛乳の瓶を私に1本わたし、自分もグッと飲み干してからジロリと私の作業空間を見渡した。
 何かアドバイスかお叱りか…などと構えていると、「あまり急いでやるもんじゃあないぞ」と、彼は渋い声でボソリと言い残して背を向けて引き返してしまった。丁寧にやれ、手を抜くなという指摘なのかとも思ったが、作業の仕上がりを確かめる風でもない。まあ、先輩風をふかしてみたかっただけか、などと生意気に考えていると、休憩終了のベルが。その後も続いたのは同じ単純作業ではあったが、帰宅してみれば肩の凝りを感じてバイト初日を終えた。
 田舎とはいえ進学校の生徒で物事の呑み込みが早く、体力は無かったがコツを掴む要領の良かった私は、バイトも数日経つと、与えられた単純作業のスピードがいよいよ上がり、手掛けるストックが無くなってリングの山が前工程から来るのをしばしば待つほどになってきた。アルバイトが暇そうにしていては見栄えが悪いと思ったのか、班長と呼ばれる中年の男性が手持無沙汰の私に声をかけてきた。
 「君は高校一年生だったね。社会勉強させてやるので付いてこい。」と言われて素直に後を続くと、班長は社用のグレーのカローラバンの助手席に私を乗せて、工場の正門から走り出した。「付き合いのある会社まわりに同行させてやる。」というのだ。高校生が一般の会社において職員と談話などという機会は普通はあまり無いことなので、嬉しいサプライズだ。
 幾つかの市内事業所を訪問する中で、班長は特に親しい面談相手には、形式的な商談を終えると、タバコを片手に屈託のない雑談をし始めた。それまで回った会社では「社会勉強で」と私を紹介していたのだが、「この子は仕事を進めすぎてねぇ…」と切り出した。つまりは、定時の就業時間内に負荷が偏らずに皆が作業できるのが望ましいところ、私の次工程ではストックが増えてプレッシャーとなり、私の前工程でも急かされるような雰囲気になって良い状況でなかったというのだ。なので、時間調整のために私を連れ出した、ということなのだ。
 何となく悪者扱いされている話の流れになり居心地も少し良くなかったが、なるほど製造工場という流れ作業で構成される現場では、各々の作業進捗のバランスにも配慮しなくてはならないのか…と、一つ勉強になった気がしたものだ。しかし、限られた時間の中で効率を上げていく視点で全体を底上げしようとするのではなく、現状のリズムありきで変化を嫌い安定を重視するものの考え方に、この時、痛烈に違和感を感じた。この感覚が後に就職を本気で考える際の原体験ともいえる根幹的な意識となった。

(「仕事観の形成と就職するまで編2」終わり。「仕事観の形成と就職するまで編3「世論調査員・家庭教師」」に続きます。)
☆ツイッターで平日ほぼ毎日の昼休みにつぶやき続けてます。


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