<はじめに>
子どもの頃から近所で行き来のあった独り暮らしの大叔母は、介護が必要となって以降は、あれよあれよと有料老人ホームへの暫定的入所から特別養護老人ホームへの本格入所、更に認知症が進行しての意識も朦朧とした状態での入院、そして看取りと葬送に至ってしまった。それらの面倒見に関わった経緯から、私は残された「空き家」の扱いを任されたのですが、叩き売りのように処分するのは何とも気が引ける思いなのです。
子供もおらず同様に独身であった姉妹もみな亡くなって血筋は絶えてしまったものの、大叔母が確かに精いっぱい生きた記憶が語られる機会を残すためには、この家のままで活用されることが、もう暫くの間はあって欲しいなあと思うのです。例えば、この地に移住して地域を盛り立てようとしてくれる人に、住まいや活動の場として、借りてもらうなどすることで…。
託された「空き家」を地元の振興へとどのように活かしていけるか考え始めたところですが、先ずは、ここまでに至る大叔母の物語を振り返ってみようと思うのです。
<第一章「空き家」になるまで>
●不思議なおばちゃん達と僕(その1)
「幼い時には特に意にも介さずこれが普通と思うことは多いもの」
●不思議なおばちゃん達と僕(その1)
「幼い時には特に意にも介さずこれが普通と思うことは多いもの」
物心つく頃、自宅以外で初めて記憶の残る家屋は、何かと祖母に連れられて行かれた一軒家であった。
その家の面前の県道は、幹線国道から離れた市内の住宅街を通る歩道もない細い道路であったが、付近に全国的にも名の知れた大きな鉄工所があることからバス路線でもあり、朝夕の通勤帰宅の時間帯を中心に結構な車通りがあった。だから、その家の玄関に入るまで手を引かれ歩いている間、間近に行き交う安い国産車の騒がしい音や排気ガスの臭いが子ども心に緊張感をもたらしたものだ。
四軒程度の間口で構える古く薄茶けた平屋建て木造家屋の、玄関木戸を滑らせて開けると、土間の横に位置して、玄関並びのガラス木戸から直ぐ前に道路を眺める六畳ほどの部屋では、天井から垂れ下がる白熱灯の下で黒光りする足踏み式の"サイゴンミシン"に向かって椅子に座して背中を丸めてカタカタと音立てて縫い物をするか、その近くにある低い台の上に載せた電子ピアノ大の"ブラザー編み機"を小気味良く大きくシャッシャッと左右させながらセーターなどを真剣な表情で編むなどしする、痩せて小柄な年輩の女性がいつも居た。
祖母はその人にぶっきら棒に「寄せてもらうよ」と少しだけ目をやって、丁寧な挨拶や愛想笑いをするでもなく、僕の手を引いて遠慮なしに土間からまっすぐ奥まで続く板張りの廊下へ上がり、家の中へと立ち入って行く。その姿を見て声を掛けるでもなく、頑固そうな面持ちを自分の手元に戻して黙々と縫物や編み物の機械音だけを再び鳴らし始める…。
私の記憶に残る最も古い大叔母の姿はそんなところだ。気難しそうな小さくて細めの目をして、常に何かに追われているかのように作業をしている。のんびりとかゆったりしている様子を見たことが無い。何か因果な宿命でも背負っているような、何か大きな借りを返すためのような、そんな"思いつめた感"が皺の多い顔から伝わってくる大叔母の人生の後半を僕の知る限りで振り返りながら、通称"おばちゃん"が残して私が扱いを任されている「家」の意味と、それがどう扱われるべきなのかを考えてみたいと思うのだ。
(空き家で地元貢献「不思議なおばちゃん達と僕」は「その2」に続きます。)
※"空き家"の掃除日記はこちらをご覧ください。↓
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