黒田晴美の子育てとコーチングと「わたし」

神戸でコーチをしている黒田晴美です。子育て中のママや夢に向かって一歩踏み出したい方のサポートをしています。

8月6日

2010年08月07日 | はるの成長日記
昨日は8月6日でした。

ヒロシマに原爆が落ちた日です。

キャンドルナイトで知り合ったたけちゃんは、
毎年この日、広島にいっているそうです。

今年は、灯篭流しが行われる元保川にカヌーで入り、
灯篭を優しく流れに戻す大切な役割をされるお友達の手伝いをされるとか。

さき姉は、神戸で「平和の火」を灯しながら、
被爆者の方のお話しを聴く会を開催してた。

私は、8時15分と夕食の後、
子どもたちにこの国にも戦争があったこと。
そして、今日がどういう日かを簡単に話をして、
子どもたちと一緒に平和を祈った。

さき姉いわく、
平和の火は、いつもと違って真っ赤に燃え、
大きな熱を発していたのだとか。

身体はつねにだるく、 異様に喉が渇いた一日だったようです。


なぜだか昨日は、携帯を忘れて出てしまって、
朝ちょっと必要があってPCを開いた以外は、
家に帰ってくるまで携帯もみれず、
夜もPCを開けませんでした。
そのおかげで?普段はあまり見ないテレビをみることができました。

NHKの戦争特集。

原爆投下後、日本政府はすぐさま情報を収集しはじめました。
それは、アメリカにデータを提供するため。
原爆を投下したらどうなるかというデータは、
アメリカが喉から手が出るほど欲しがっていたもの。
それを提供することは、日本にとって有効なカードだったらしい。

そこには、731部隊のことを穏便にして欲しいというもくろみもあったらしい。
731部隊のデータも、アメリカに提供されているし。

広島で被爆した人たちは、
治療のためではなく、実験結果のためだけにデータをとられ続けた。
治療ではなく、いろんな薬を打たれたりして、
データを取られていただけだった。
「こいつはいつまで生きるんだろう」そんな目でみられていたと体験した人は語る。

解剖された11歳の女の子。
遺族は「遺体を提供してくれ」といわれ、最初は断るものの、
「この子が原爆で苦しむ多くの人を助ける手立てになるなら」と最後には受け入れた。

だけど、それは被爆者の治療に使われることはなく、
ホルマリン漬けになって、長くアメリカに保存されていた。

親戚の方が広島の大学に戻ってきていたその子(その方にとってはおばさんになるらしい)と対面していた。

その姿は、たった4枚のプレパラート。



死んだ女の子 Dead Girl


junoさんがブログで紹介してくださっていて、初めて知りました。

『死んだ女の子』

高石友也さんも歌っておられたようです。


うちの娘も7歳。

言葉もありません。


一夜明けて、PCを開くと、
いろんな方が8月6日への想いを綴られていた。

なぜだろう?
今年はやけにそんな記事が目を引く。

いろんな人がいろんなところで、
それぞれ自分にできることをしていく。
それぞれの形で平和への想いをつなぐ。

家族で行こうっていっているヒロシマ。
風が小学生になる来年ぐらい実現するかしら。