弁財天のご朱印は、お正月の7日までは、抜弁天交差点の角にある厳島神社で頂くが、
それを過ぎると西向天神社で授けていただく。
この西向天神社は、古くから東大久保村の鎮守社であり、
まねき通りという商店街を抜けて行ってみると
新宿とは思えない古い鎮守の森という佇まいであった。
三大将軍家光が鷹狩りに来て、荒廃していた当社の社殿等の修復のために
金の棗の茶入れを下賜して再興を促したという伝承があるそうで、
菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請し、棗天神という俗称もあるとか。
この神社に並んで大聖院というお寺もあって、境内に「紅皿の碑」があった。
「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」
という古歌に託して太田道潅に山吹の一枝を差し出した娘紅皿のお墓と伝えられている。
「中央部および下部に大きな欠損がありはっきりしないが、中央部に主尊を置き、
四周に十二個の種子を配した十三仏板碑であったと推定される。
造立年代は不明であるが、十三仏板碑が盛んに造られた十五世紀後半であると思われる。
紅皿は、太田道灌が高田の里(現在の面影橋あたりとされる)へ鷹狩に来て
にわかに雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立寄ったところ、
その家の少女が庭の山吹の一枝をさし出して断った。
これが縁となり、道灌は紅皿を城にまねき歌の友とした。
道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
後年、芝居で演目とされたため、十二代守田勘弥らの寄進した石碑類が並んでいる。」
と新宿区教育委員会の札が建っていた。
「紅皿欠皿」という民話があるようで、内容は
美しい娘欠皿を、継母とその実子の醜い紅皿がいじめるが、
欠皿は高貴な人とめぐり合い結婚して幸福になるというシンデレラのようなお話。
それを元にした歌舞伎の狂言か?
明治初期、『月缺皿恋路宵闇』(紅皿欠皿)の舞台で、江戸三座で頂点を極めていた
澤村田之助という守田座の立女形がけがをしてそれが原因で右足に脱疽を患い、
両足を切断することになってしまったそうだ。幸い、後に見事に舞台に返り咲いたそうであるが、
そんな顛末もあって、守田座の座主の守田勘弥がを寄進したのであろうか?
何で見たのか覚えていないが、道潅に山吹の枝を差し出している娘の絵を
子どもの頃に見た記憶があるが、娘の名前までは知らなかったので
思いもかけない出会いに天神さまと弁天さまに感謝した♪♪♪
それを過ぎると西向天神社で授けていただく。
この西向天神社は、古くから東大久保村の鎮守社であり、
まねき通りという商店街を抜けて行ってみると
新宿とは思えない古い鎮守の森という佇まいであった。
三大将軍家光が鷹狩りに来て、荒廃していた当社の社殿等の修復のために
金の棗の茶入れを下賜して再興を促したという伝承があるそうで、
菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請し、棗天神という俗称もあるとか。
この神社に並んで大聖院というお寺もあって、境内に「紅皿の碑」があった。
「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」
という古歌に託して太田道潅に山吹の一枝を差し出した娘紅皿のお墓と伝えられている。
「中央部および下部に大きな欠損がありはっきりしないが、中央部に主尊を置き、
四周に十二個の種子を配した十三仏板碑であったと推定される。
造立年代は不明であるが、十三仏板碑が盛んに造られた十五世紀後半であると思われる。
紅皿は、太田道灌が高田の里(現在の面影橋あたりとされる)へ鷹狩に来て
にわかに雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立寄ったところ、
その家の少女が庭の山吹の一枝をさし出して断った。
これが縁となり、道灌は紅皿を城にまねき歌の友とした。
道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
後年、芝居で演目とされたため、十二代守田勘弥らの寄進した石碑類が並んでいる。」
と新宿区教育委員会の札が建っていた。
「紅皿欠皿」という民話があるようで、内容は
美しい娘欠皿を、継母とその実子の醜い紅皿がいじめるが、
欠皿は高貴な人とめぐり合い結婚して幸福になるというシンデレラのようなお話。
それを元にした歌舞伎の狂言か?
明治初期、『月缺皿恋路宵闇』(紅皿欠皿)の舞台で、江戸三座で頂点を極めていた
澤村田之助という守田座の立女形がけがをしてそれが原因で右足に脱疽を患い、
両足を切断することになってしまったそうだ。幸い、後に見事に舞台に返り咲いたそうであるが、
そんな顛末もあって、守田座の座主の守田勘弥がを寄進したのであろうか?
何で見たのか覚えていないが、道潅に山吹の枝を差し出している娘の絵を
子どもの頃に見た記憶があるが、娘の名前までは知らなかったので
思いもかけない出会いに天神さまと弁天さまに感謝した♪♪♪