退院して1週間目の2月24日早朝に旅立った父なのですが、
亡くなる前日と当日の事を少し書いてみたいと思います。
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私の記憶が前後していて記憶内容の時間関係が曖昧な点がありますので、読みづらいと思います。内容が内容なのでお許しいただければ幸いです。
前日、この日は「私が作った車椅子カバー」を父に試して貰うために父に車椅子に座ってもらいました。
これは「餓鬼」みたいになった父の体が直接金具に振れて痛くならないように私が柔らかいタオルをミシンを使い加工したものです。
それをセットして昼過ぎに父に座ってもらった。
というより、無理やり座らせたというのが正しいかも
既に父は私の肩に手を掛けれる状態ではなかったので、私が無理やり載せた感じです。
この時、母に「ここを手伝って」とイライラして怒った事を覚えています。
怒った理由は「簡単」普段は仕事で私と妻が日中留守にするから、自分でする練習をして欲しいということ。
これは、無用の心配で終わりましたけど、その状況を踏まえて、妻には「母」が音を上げるかも知れないと伝えています。
また、その時は24時間看護施設も話を私が済ませていたので慌ててはいません。
ただ、看護士さんの在宅看護・介護等を改めてお願いする必要は退院直後から感じていました。
そしてそれ以上に「危ない」とも感じていました。もう長くないと・・・・
その時は「兄弟に連絡する」ことはしなかった。
これにも理由があって、こちらから何回も同じ電話をするのは嫌だと感じていたからです。
この時の父は「麻薬の影響」で意識が薄かったと思います。
車椅子の感想は聞けず仕舞いです。
その後、私はコロナの後遺症!?でダウンして床についています。
そして翌朝
母が妻に父の様子がおかしいと伝え、直ぐに私も階下の父のそばに向かいました。
その時は、私が触っても手が暖かい状況(その時既に亡くなっていたと思います)で
みな、母が連絡入れた看護士さんを待っていた。
私は叔父さんと私の兄弟に連絡を入れたのですが、その前に看護士の方が来られたのか
その後に看護士さんが来られたのか記憶が曖昧です。
看護士さんの説明では「呼吸と心臓が停止している状態です」と亡くなられていると思います。
ということで「父の目を閉じて」下さいました。
ただ、先生の判断が要るので「先生が来られるように手配します」とのこと。
看護士の方が帰られたあとに、私が父の顔をお湯で湿らせた「ガーゼ」で拭いたのですが、
父の右目から「涙」が流れました。
昔、ドラマで亡くなる寸前に一粒の涙が流れ落ちるシーンを見たことがありますが、そのシーンと同じ状況でした。
そして、暫くして「父の目が乾いて」いくのが目に見えて解りました。
私が「父の死」を確信した瞬間です。
その後、先生が到着して改めて「父の死」を告げられました。
先生は淡々と死亡診断書を記入されておられました。本当に気を遣うお仕事だなと感じました。私はこういう仕事には向いていないとも感じた。
そして、看護士さんから「葬儀社の手配は?」と言われたのを辛うじて覚えています。
ただ、そのあと直ぐに葬儀社に連絡したのかは覚えていません。
☆☆身近な人の死を受け止めれますか?☆☆
私は2週間以上経っても受け止めていないようです。
私は50代になりましたが、同居家族が亡くなったのは初めてです。
誰もが通る道と存じますが「辛くて悲しい」としか思えないです。
私は父が長くない事を受け止めていたのですが、亡くなることは別ですね。
ただ、コロナ禍のため火葬場の順番まで時間があったので
父を5日程自宅で休ませることが出来たのが救いでした。
しかし、娘と息子がお爺ちゃんの死を受け止める事が出来なかったようです。
ずっと一緒に住んでいたので、受け止めるには時間がかかりそうです。
後日弟に聞いた事ですが
私の父は私の子供が孫の中では「特別かわいい」と弟に話していたようです。
父がそのように私の子供に接してくれていたと思うと嬉しくて溜まりません。
そう思えば、それを受けてきた私の子供たちが辛いのも頷けます。
父がまだ暖かったことや一筋の涙は忘れることは無いと思います。
そして、死を迎えた事で目が乾いていくことも忘れないと思う。
私は父に「死んでから、良くしてもらっても嬉しくない」と散々聞いていましたが、
それを叶えることが出来たのでしょうかね???
父が私の腕を「トントン」して「もうええよ!」と伝えてくれたのが、父からの感謝の思いだと信じています。じゃないと辛すぎます。
次回は暖房のつけすぎと葬儀社さんに指摘された事を書いてみたいと思います。
最後までご拝読ありがとうございました。
初回からのリンクが下欄にありますので、興味があれば読んで戴ければ嬉しいです。