父が2月17日に退院しました。
亡くなる1週間前です。
その前に、看護士・薬剤師・言語聴覚士の方より「父の現状」を伺う事が出来ました。
食事が上手くとれていないこと
嚥下が出来難いこと・・・
聞く限り相当悪いように感じた?
エエ~先生より聞いている話と違うやんというのが、私と母の感想
そう、一日単位で病気が進行している事を私たちが忘れていたのです。
☆☆先生からお聞きしていた病状について☆☆
先生からは入院(1月15日)後には毎日、病状の報告の電話がありました。
ご飯を食べないとか、水分が取れないとか、点滴を外してしまうとか、ものすごく詳細にありました。
また、看護士さんを蹴っていた?らしいとの報告も・・・
電話なので私しか聞いていない(緊急連絡先が私だった為)
入院先の病院は「家族でも病室に入れない」、今のご時世を考えると当然だと思います。
冷静に考えればですが
先生が「とても元気」と話していたのは、ステージ3若しくは4という指標から見ればと言うことなんでしょう。
病院からの連絡内容は、母には直ぐに報告しておりました、でも、この頃は二人とも父が元気に退院を信じていたのでした。
☆☆父に会えるまでの待ち時間☆☆
着替えの服をお渡しして、父が車椅子(私が持参)に乗って部屋を出るまでが凄く長かった。
その間亡くなられた方がストレッチャーで私たちの前を通りました。
その時、父が一週間後に亡くなるとは思ってもいません。
あの家族の方、可哀そうだな・・・ぐらいにしか思えなかった。
その前に父の荷物を預かったのですが、半端ないぐらいな量???
私たちが持って行った「水等の補助食品!?」がそのまま返却
大量のオムツ・・・
これも、今思えば父の状態が芳しくなことを物語っていますね。
ですが、それを冷静に考えること受け止める事は出来ない状態でした。
私たちは30分くらい待ったように思います。
☆☆父との再会☆☆
私は「父の名前」を呼ぶつもりでいたのですが、そのような状況・状態ではなかった。
車椅子からずり落ちそうな勢いの父を見て、えぇ~という心の叫びが出ました。
妹には家で待機するように伝えたのですが、同行してもらうべきだったです。
その時の状況はそれ以外覚えていません。
ナースステーションにお礼を言ったように思いますが、記憶が怪しいです。
看護士さんの付き添いありでエレベーターで下まで降りたのですが、
そこからが大変でした。
車が病院の駐車場に止めれなかったので、まず、車を取りに行き
父を車に乗せようとしたのですが、父に体力がなく
乗せるのは大変苦労しました。
父が軽くなったのも幸いで何とかなりましたが、母だけでは無理だったと思います。
ただ、父は私の「あぁ~して・こぉ~して」の意味が何となく理解していたようで
少し安心した記憶があります。
☆☆自宅に到着☆☆
車から降りるのも大変・・・・ここは割愛しますね
父には、自宅ベットで横になってもらう。
これが午前中の出来事
午後には「ケアマネージャー」「訪問看護の看護士」の方々が自宅に来てくれました。
これは、私が事前に「退院日」と今後の事を相談していた事が実っただけなのですが、
母や私の兄弟はその事を知らない・・・・
そして、ケアマネジャーの方とは今後の介護用品(車椅子)の手配・看護サービス手配について打合せを行いました。
そして、看護士の方の意見もお聞きするようにと助言を戴きました。
その後、看護士の方(入院前の状況もご存じの方)も来られ、
車椅子への誘導、そしてベッドへの誘導方法、父を立たせる方法を教えて戴き
また、オムツ等の交換方法も教えて戴きました。
そう、この時点で自力で「トイレ」に行く事が出来なくなっていたのです。
私は「もう駄目だから、自宅で看取れるよう」に配慮してくれたのではないかと看護士に伝えると、
静かに私もそうだと思いますと申されました。
私は入院先の先生に家で看取りたいと伝えた記憶がないのですが、おそらく、ネットワークの力で伝わっていたのかなと思います。
☆☆母と妹伝えたこと☆☆
私の経験上「内臓疾患の方は急に息を引き取る(一週間前まで意識があったのに・・・)」可能性があること
父もこの事を実姉で経験していること
父には私達の会話が聞こえていること
を伝えました。
☆☆家族の反応☆☆
私達家族がコロナに罹患した(退院時は全員完治)ことも影響があると思いますけどね、
私達はそう思わないとやってられん・・・こんな心境です。
実のところ、生前に御見舞いに来た兄弟は居ません。
これが現実なんです(笑)
妹には「噛み砕いて説明」していたのに本当に情けなく思います。
妹が後悔したくないと話していたことは果たし誠なのだろうか?
弟には小学1年生の子供が居るので万が一でも「罹患」させたくないと伝えたことを後悔しています。
判断をしたのは弟ですが、判断を狂わす材料を提示したのは私だし
退院後に母と妹に伝えた内容(前述)を説明していなかった。
これは本当に悔みます。
叔父さんには退院した旨と状況を伝えてはいたのですが、芳しくないことは伝えなかった。
兄には連絡はしたけど、相変わらずの反応だったので・・・・割愛
☆☆父が生前に話していたこと☆☆
当たり前と思いますが「生きてる間に幸せにして欲しい」散々申していました。
まぁ~優しくしてねとも取れるし、死んでからやってもらっても嬉しくないとも取れます。
このことは私も同意見です。死んでから色々面倒見たとしても
目を瞑らないと会話できない!
父に伝わるかも知れないが、父からの返事・感想は聞けない・・・・
これを私の兄弟は理解できていないと思う。
私は散々喧嘩したけど、その分仲が良かったとも思っている。
そう思うのはですね・・・↓
☆☆父があまり言わなかった・言えなったこと☆☆
父は父の両親とは、父が三男(実質は次男)という関係で実家とは距離があったと思います。
ですが、頻度は不明ですが、土曜日(当時は会社が午前中勤務)の午後から実家に泊まりに行ったりしてました。私も同行して泊まった記憶があります。
そして、父母が入院になった時は週末は病院にお見舞いに行き
父母が好きな食べ物を持って行っていたようです。
また、勤め先から栄転(所長として、他県に赴任)を父母の病状を勘案して辞退します。
これが、この勤め先を退職するきっかけになっているのですが、私の兄弟は知らないと思う。
そして、実姉が亡くなるまでの期間
相当、姉には迷惑をかけていたのか「お見舞い」を頻繁に行っていました。
当然、入院前はそれなりの付き合いもしていました。
私も聞いていたのですが、父の長兄(医学薬学に詳しい)からは使用している薬を見る限り
もう長くないと話していました。
父がこのことをどう解釈してかは聞いていないし知らないですが、
私も亡くなる一週間前に叔母さんい会っているので、私はどうみても死に行く人には見えなかった。
私が叔父に「背中が痛いの解るから、正常じゃないの?」と言ったこと
(実は、肝臓が腫れているための「痛み」だったので、末期症状だったんですよね)
これも、そういう考えもあるのねと軽く受け止めてくれた叔父さん
これらの会話を父は聞いていたと思う。
ただ、父も一週間後に実姉が亡くなるとは想像も出来なったのではないかと思う。
☆☆痴呆症とは???☆☆
脳の障害とだけ書きます。
父は、自分が死ぬいく運命であること・・・そしてそれが近づいていることを知っていたと思う。
いや、理解していたと考えます。
それを言葉で表現できなかったなのだと思う。
そうじゃないと辻褄があわない事があります。
私は、父とアイコンタクトが取れていたんですよね
私が聞いたことを目で答えてくれていました。
当然、拒否することもありましたけど
そして、亡くなる数日前に
ありがとうの意味で「私の腕をトントン」と叩いてくれたんです。
そして「もう良いよ!」って言ってくれた。
これが、私の記憶に残る「最後の言葉」です。
この時の状況を後ろで「母と妻」が見ていた。
母がどう感じたのかは解らないけど、妻が良かったねと言ってくれた。
私は、父が自分の思いを表現出来難い状況になっただけだと思います。
アルツハイマー型認知症の一部は完全に記憶が無くなる訳ではないと・・・・
私が痴呆症の父に暴言を吐いていた状況を知ってる方は何を偉そうに書いていると思うでしょう!
これは「否定しません」
ですが、考え方を変える事が出来たことも知って欲しいです。
そして、変わるきっかけを作っていただいた、老人ホームの関係者の方々、看護スタッフの方々に感謝しています。
常々、絶対に後悔しないことは有り得ないと話しておりますが、
私はやることやって後悔する方が、得るものが沢山あると思います。
今回は「亡くなるまでの一週間」
を書いてみようと思いましたが、当然、そのつながりをもって書き進めたのですが
それは今書けないことに気付きました。
内容が重いのではなく、その事を私がまだ受け止めれていないと感じたからです。
私は父が「旅経つまでの身支度」を納棺師の方々にお願いして手伝わせて頂きました。
手伝ったことに一切後悔はないですし、良い体験が出来たと思っています。
これも体験談として備忘録的にご紹介できたらと考えています。
父が亡くなって2週間経ちますが、私はこれからどうなるでしょうかね?
今回はこのあたりでお開きにしたいと思います。
最後までご拝読ありがとうございます。
1回からのリンクが下欄にありますので、興味があれば読んで戴ければ嬉しいです。
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