のりひめのひとりごと Monologue of Noriko

2012年からオーストラリアと日本を行き来しています。日常のいろいろを書いてます。

のりひめの過去ばなし1.少女時代?

2011-06-15 14:44:01 | のりひめの過去ばなし
関根典子と申します。(旧姓は高野です。)

ビジネス書の出版を目指して、
まずはいままでの人生の振り返りをしてみました。
気が向いたらおつきあいくださいませ。

1965年7月2日、埼玉県生まれ。
父は満州奉天生まれ。母は埼玉生まれ。
芸大の声楽科卒の独身の姉がひとり。
私は次女で、2005年に39歳で結婚しました。
現在夫と二人暮し。夫の実家がすぐそばにあり、
夫の母きぬちゃんにとってもお世話になってます。

わたしの母は昨年脳梗塞をわずらい、要介護ですが
父が面倒をみています。

コメントとか合いの手とか入れていただけたら嬉しいです^^


●マンガ描きと同人誌制作、みんなで何かやるのが好きだった

子供のころは喘息もちで少し病弱だったため、
3歳からピアノを始めていたこともあり、
あまり外で遊ばないで家の中で読書するのが好きな子供でした。
というと、おとなしそうですが、
マッシュルームカットの頭で小学5年生からびんぞこめがね
大柄で太めで、声が大きい子で、男の子と平気でけんかしていました

ピアノに関しては、武蔵野音大の先生に小学校からついていて
毎日2時間も練習していたのですが、
小学校高学年から少女マンガを描くのが大好きになりました。
ピアノは先生が好きだったので習慣として大学卒業間際まで続け、
少女漫画は趣味で没頭するものとして続けました。

姉が6歳上ですので、家には本がたくさんありました。
小学校2~3年生のときは、メアリー・ポピンズシリーズが大好きで、
暗記するほど読んで、挿絵も真似して描いていました。
母に「あら 上手ね」とほめられたので、
どんどん何度でも描いていました。

そのほかにも「ナルニア国物語」もお小遣いをためて、一冊一冊あつめ、
次の本を買うまで何回でも読みました。
「大草原の小さな家」や「長靴下のピッピ」、「赤毛のアン」など
さまざまな物語に没頭し、挿絵もまねして描いて遊んでいました。

そのうちに少女漫画に出会い、バレリーナの絵とかバラの花をしょった
お姫様の絵をいっぱい描くようになりました。

学校にも同じような絵が好きな子がいて、
3、4年生のころから休み時間は教室のすみに机をくっつけて
4~5人の女子で絵を描いていました。

まわりになぜかギャラリーが集まり、わいわいと楽しくやっていました。
この遊びは中学いっぱいまで、クラスが変わって友達がかわっても続きました。
小学校5年生のときくらいから、ストーリーマンガを描き始め、
友達と一緒に回し読みするようになりました。


中学は地元の第3中学校へ。
田んぼの中の学校で、毎日20分ほど歩いて通いました。
10名くらいの描き手がいる回覧の同人誌を作り、
月に一回くらい発行するようになりました。
当時学年で300名ほど生徒がいましたが、
各教室ごと読者がおりました。

萩尾望都、有吉京子、池田理代子、まつざきあけみ、内田善美など、
絵が美しい少女漫画家が大好きで、自分もそのような絵を目指して四六時中
夜おそくまで描いていました。
たまに母に買ってもらう外国のファッション雑誌「VOGUE」の美しいモデルさんを
下手なりに夢中で描いていました。

部活は小学校のときは絵画部、中学校では器楽部、
かけもちで華道部も3年間つづけました。

高校でショートだった髪を伸ばし、三つ編みのセーラー服の
だいこん足の女子高生に。
入学したところは池袋にある豊島岡女子学園高等学校です。

入学したその日か次の日にはマンガ友達も見つかり、3年間、
今度はコピーの同人誌をやりました。
たぶん20名くらいの描き手がいて、読者いれて50部から100部
発行していました。

同じ学年に生徒は11クラス550名ほどいて、
どのクラスにも描く人と読む人がいて、まわし読みされていましたので、
かなりの数の生徒が読んでいたかと思います。
わたしが原稿を集め、新宿の7円コピーでA3版を1000枚も
コピーして持って帰り、家で二つ折りにして帳合いし、
ホッチキスでとめて冊子にしていました。

教室に自作カレンダーを貼り、その下に「読者募集 一冊360円」と
書いていたら、「高校生のくせに営利活動をしている」と、
親も一緒に校長先生に呼び出しをくらってしまいました。

まったくの実費だったのですが、進学校で厳しい女子校だったので
漫研などは作れず、同人誌発行もその後は極秘で、
美術部にメンバーみんな潜伏しておりました。(ばれてたかも)

美術部のほかに1年生では合唱部、2、3年生ではピアノ部に入り、
中学と同じくふたつの部をかけもちしていました。
ピアノ部はピアノ練習室が使用でき、朝7時には学校のピアノ練習室を
ひとつ占領し、毎日一生懸命練習もしていました。

高校2年生までは、冬に遊びに行ったフィギアスケートにはまり
(漫画槇村さとるの「愛のアランフェス」の影響も大)、
夏も毎週日曜日はスケート場に通い、先生について簡単なスピンや
ジャンプができるまでになりました。
スケートは練習を始めたら、練習方法がピアノと似ていて、
ひとつ覚えると、左右や前後で4通りの動きを練習でき、
自主練習の時間でも向上できて面白かったからです。

また、スケート場の常連のアイスダンスのおじさんやおばさんが
教えてくれました。
お菓子をたくさん持って行ったり、
スケート場で焼きそばやアメリカンドッグを食べながら一日練習して
すごすのが遠足のようでとても楽しかったです。
とんでもない大根あしですが、ちゃんとスカートのついたレオタードも
着ていましたよ♪

当時もすでに進学校で、「こんなに勉強しない学年ははじめてだ」と先生に
あきれられ、
とくにわたしたちの6人グループは、しょっちゅう寄り道で見つかって
職員室掃除をさせられました。
たぶん目をつけられていたでしょう。
そんなこと気にもしないで、職員室の顔となり、
きゃあきゃあとハイテンションな女子高生活を満喫しました。


ピアノを弾いていたので、音大も考えたのですが、
芸大の声楽科めざしてすでに何年もがんばっている姉を見ても、
音大に行くのは大変そうだし、行ってもうまい人だらけで競争激しそうだし、
せっかく苦労して受験するなら普通の女子大生になってみたい!と思い、
ふつうの大学それも、みんなが知っていて都心にある大学に進むことを
決意しました。

中学のときに見た「オールナイトニッポン」で女子大生が活躍していたのが
とっても印象にあり、わたしの大学進学の熱意は、
「あんな女子大生になりたい」と、その一点だったのでした・・・。

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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
すごいね~。 (ひろりん)
2011-06-15 15:24:14
ブログ久しぶり♪

ピアノの他に絵やスケート、
のりちゃんは実に多才多芸ですね。

>「こんなに勉強しない学年ははじめてだ」

あはは。
私は小学校でみんなでやった缶けりが楽し過ぎて、高校までやりました。
中庭の全校生徒が見えるところで(笑)。

続き楽しみにしてま~す。
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ひろりん! (のりひめ)
2011-06-15 15:31:40
すごい速攻で温かいコメントをありがとう~~!

小学校から高校まで缶けり続けるなんてすごい!
藤崎ひろみの缶けり人生 って本
出したらいかがでしょう?
さて大人になったら何をけっているのか。。。^^
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Unknown (はに丸)
2011-06-15 22:33:08
ピアノと部活を二つも三つも掛け持ちしたり(しかも進学校にいながら)
同人誌の発行をしたり本当にパワフルですね~♪

でも大変という感じではなくて、いつも仲間と楽しみながらやってる感じが印象的です。

ブログ読んでますよ~。

返信する
そうだったんだー (TOKO)
2011-06-15 22:50:46
だから今ピアノが弾けるんだ。
渋谷K塾時代は、のりひめがピアノが弾けるなんて全然知らなかったよ。

私も子供の頃からピアノ習っていて、中学の頃音楽の先生に恋して一生懸命練習した(笑)。
動機は不純?だけど、何でも一生懸命やっておくと、後から役に立つ時がくるね。
この歳になって、最近つくづくそう思うの。

のりひめは、少女時代の経験が、
これからもっともっと人生に反映されてくるよ。
予言しておくよ(笑)。
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↑多芸多才でした! (ひろりん)
2011-06-16 01:32:28
速攻でコメント書いたのは良かったのだけど、
最初に多才って書いて、後から付け足したものだから、「多才多芸」って逆の4文字熟語になってしまった(汗)。
おゆるしを♪
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はに丸さ~ん (のりひめ)
2011-06-16 11:52:51
コメントありがとう!
いやいやはに丸さんの高校時代に比べたら
単にお気楽そのもの、
夢にむかっていたはに丸さんはすごいよ~^^
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TOKOさ~ん (のりひめ)
2011-06-16 11:54:27
いいね♪音楽の先生に恋して^^
わたしも数学と物理の先生好きだったけど
学科は全然だめだった~~~
とっても文系なの
すてきな予言をありがとう~
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ひろり~ん (のりひめ)
2011-06-16 11:55:23
そ そうでしたか
違いがわからん日本文学科(TT)
多芸多才 よじじゅくごはむずかしい・・・
ありがと
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Unknown (ぽん。)
2011-06-16 21:00:56
自分の棚卸しめいていて
人様のこういう文章を読むのが
好きだったりします。
現在にいたるまでの道のりを
これからも楽しみに
拝読させていただきますね。

ところで「愛のアランフェス」は
槇村さとるじゃなかったですか?
くらもちふさこはのり姫さん流に云えば
「いつもポケットにショパン」とか
あちらの系列だったような記憶が
うっすらと…。
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ぽんちゃ~ん (のりひめ)
2011-06-16 21:12:17
そ そ そう!
槇村さとる ですっ
くらもちふさこはおっしゃるとおり!!!!!
ほんで 妹の倉持知子の「青になれ!」も
はまったああ~

ありがとう~ さすがです!
いま本文なおしちゃうね
あ・り・が・と♪
怒涛の女子大生時代を知る数少ないぽんちゃん
そのせつはありがとうございました~
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