西を向いても東を向いても嫌なニュースばかり。
【驚愕】元東電社員の内部告発 | PBR
それはさておき
先週放送された『T2』は前回にも増してカットされまくりであったような気がするのですが、ワタクシの思い過ごしでしょうか。ほとんどダイジェスト版を見ているような心地がいたしましたよ。
それでも、T-1000が顔面にショットガンをくらいながら元気にT-1000走りしているのや、業火の中から無表情で(←ここ重要)すたすた歩み出て来るのや、胴体に突き刺さった鉄棒をぬっ ぽん と横ざまに抜き取るのや、邪魔者さんたちを無駄のない動きでさくっさくっと刺し殺して行くのを見ることができてたいへん爽やかな気分になりました。
前回のT-1000ばなしはこちら。
悪を定義付ける言葉はさまざまございましょうが、倫理的・社会的秩序からの逸脱というのもそのひとつでございます。実際、映画の悪役もその多くは逸脱者であるわけでございますが、T-1000の逸脱ぶりときたら他の悪役連中と比べても抜きん出ております。その抜けっぷりが、何とも爽やかなのでございます。
まず
倫理的逸脱という以前に、倫理という概念自体を持ち合わせておりません。
社会的逸脱という以前に、いかなる社会にも属しておりません。
もちろん反社会的行為をしているという自覚もゼロ。
損得にもとづく価値判断すらございません。
これが例えば地球を侵略しに来たエイリアンであるとか、悪の組織のボス、強欲の輩、快楽殺人犯、悪霊、または凶暴な新生物といった一般的ワルモノたちでありますと、何か価値あるものを自分の所有下に置きたいとか、自分の利益を守りたい、また拡大したいとか、快楽を味わいたい、恨みをはらしたい、あるいは単に種として生き残りたいなど、自らに利することを追求して、その過程で秩序の側に立つ主人公と対立するわけでございます。
しかしジョン・コナー殺害という目的のためだけに作られたT-1000には、そもそも獲得したり、守ったり、拡大したりするべき利益というものがございませんし、はらすべき恨みも癒されるべき渇望もございません。殺人を楽しんでいるわけでもありません。生き延びるということすら考えてはおりませんでしょう。T-1000が執拗に甦って来るのは、ジョン殺害という自らに与えられた指令をまだ達成していなという理由ゆえに過ぎないのですから。この点、一般的な悪役像からもなお逸脱していると申せましょう。
えっ。
それなら前作のT-800や『T3』のT-Xや『ロボコップ』のED209も同じだろうって。
ちっちっちっ
T-1000の素晴らしいのは、以上に加えて物理的にも我々の常識から大いに逸脱しているという点でございます。
おお、液体金属!
何度破壊されても再生し、リノリウムの床そのままの平面やスライム状のどろりとした形状から、鋭利な刃物、さらには人体といった複雑な表層を持つものまであらゆる形にあっと言う間に姿を変えることができる(気体や複雑な機械はさすがに無理としても)、まさにありえないような存在。この視覚的インパクトは強烈でございまして、T-800やT-Xのように単に「ものすごく頑丈なボディ」を誇るだけでは太刀打ちできない不気味な迫力がございます。
その物理的特徴ゆえに-----『13金』のようなシリーズものや、不死身の悪者なんぞ珍しくもないホラー映画という特殊ジャンルは別として-----、T-1000はしぶとさにおいても他の追随を許しません。
「しつこさ」ではございません。「しぶとさ」でございます。
『激突!』のタンクローリー運転手や『ゲッタウェイ』のルディをはじめ、しつこい、あるいは執念深い悪役ならば大勢おります。「しつこい」悪役であるためには、主人公たちを終盤まで飽くことなく迫害するだけでことたります。しかし「しぶとい」悪役であるためには、善なる主人公たちから加えられる度重なる激しい攻撃に耐え、時には甚大な損傷や破壊からも復活し、なおかつ彼らに対する迫害をたゆまず続けなければならないのでございます。
いったい1895年に映画というものが誕生して以来、T-1000ほどひとつの作品の中で繰り返し攻撃され、倒され、木っ端みじんにまで破壊された一個のキャラクターというものがあったでしょうか(またもホラーは別として)。
人の上に君臨するあらゆる秩序のうち、生死の秩序ほど絶対的なものはございません。それなのにT-1000をはじめとする「しぶとい」悪役たちは、その絶対性すらも逸脱しようとするではございませんか。
生死の秩序を踏み越えた者によって執拗に追い回されるということの恐怖、そこには敵が単に強大であるとか残酷であるということとは次元が異なる、いとも冷ややかな絶望感がございます。
しかもその絶望感の担い手というのが、見た目はちっとも強そうではない細おもてのあんちゃんであるということのイメージギャップ、かつ、機械のくせに狡猾で、人物のコピーからフレンドリーな振る舞いまで応用の幅がとんでもなく広い殺人マシーンという反則的な性能が相まって、「何だこいつ!!」感に大いに貢献しているのでございます。
そんなわけで
もとより既存の秩序を蹴破ってはばからない悪役たちのアウトローぶりを愛するのろではございますが、わけてもT-1000の突き抜け具合には、いつ見ても格別の清々しさを覚えるのでございました。
ああ貴重な人生の時間と限られた能力を費やして何をやってるんだか。
まあのろの人生ごとき別に貴重でもないか。もう疲れちったし。
【驚愕】元東電社員の内部告発 | PBR
それはさておき
先週放送された『T2』は前回にも増してカットされまくりであったような気がするのですが、ワタクシの思い過ごしでしょうか。ほとんどダイジェスト版を見ているような心地がいたしましたよ。
それでも、T-1000が顔面にショットガンをくらいながら元気にT-1000走りしているのや、業火の中から無表情で(←ここ重要)すたすた歩み出て来るのや、胴体に突き刺さった鉄棒をぬっ ぽん と横ざまに抜き取るのや、邪魔者さんたちを無駄のない動きでさくっさくっと刺し殺して行くのを見ることができてたいへん爽やかな気分になりました。
前回のT-1000ばなしはこちら。
悪を定義付ける言葉はさまざまございましょうが、倫理的・社会的秩序からの逸脱というのもそのひとつでございます。実際、映画の悪役もその多くは逸脱者であるわけでございますが、T-1000の逸脱ぶりときたら他の悪役連中と比べても抜きん出ております。その抜けっぷりが、何とも爽やかなのでございます。
まず
倫理的逸脱という以前に、倫理という概念自体を持ち合わせておりません。
社会的逸脱という以前に、いかなる社会にも属しておりません。
もちろん反社会的行為をしているという自覚もゼロ。
損得にもとづく価値判断すらございません。
これが例えば地球を侵略しに来たエイリアンであるとか、悪の組織のボス、強欲の輩、快楽殺人犯、悪霊、または凶暴な新生物といった一般的ワルモノたちでありますと、何か価値あるものを自分の所有下に置きたいとか、自分の利益を守りたい、また拡大したいとか、快楽を味わいたい、恨みをはらしたい、あるいは単に種として生き残りたいなど、自らに利することを追求して、その過程で秩序の側に立つ主人公と対立するわけでございます。
しかしジョン・コナー殺害という目的のためだけに作られたT-1000には、そもそも獲得したり、守ったり、拡大したりするべき利益というものがございませんし、はらすべき恨みも癒されるべき渇望もございません。殺人を楽しんでいるわけでもありません。生き延びるということすら考えてはおりませんでしょう。T-1000が執拗に甦って来るのは、ジョン殺害という自らに与えられた指令をまだ達成していなという理由ゆえに過ぎないのですから。この点、一般的な悪役像からもなお逸脱していると申せましょう。
えっ。
それなら前作のT-800や『T3』のT-Xや『ロボコップ』のED209も同じだろうって。
ちっちっちっ
T-1000の素晴らしいのは、以上に加えて物理的にも我々の常識から大いに逸脱しているという点でございます。
おお、液体金属!
何度破壊されても再生し、リノリウムの床そのままの平面やスライム状のどろりとした形状から、鋭利な刃物、さらには人体といった複雑な表層を持つものまであらゆる形にあっと言う間に姿を変えることができる(気体や複雑な機械はさすがに無理としても)、まさにありえないような存在。この視覚的インパクトは強烈でございまして、T-800やT-Xのように単に「ものすごく頑丈なボディ」を誇るだけでは太刀打ちできない不気味な迫力がございます。
その物理的特徴ゆえに-----『13金』のようなシリーズものや、不死身の悪者なんぞ珍しくもないホラー映画という特殊ジャンルは別として-----、T-1000はしぶとさにおいても他の追随を許しません。
「しつこさ」ではございません。「しぶとさ」でございます。
『激突!』のタンクローリー運転手や『ゲッタウェイ』のルディをはじめ、しつこい、あるいは執念深い悪役ならば大勢おります。「しつこい」悪役であるためには、主人公たちを終盤まで飽くことなく迫害するだけでことたります。しかし「しぶとい」悪役であるためには、善なる主人公たちから加えられる度重なる激しい攻撃に耐え、時には甚大な損傷や破壊からも復活し、なおかつ彼らに対する迫害をたゆまず続けなければならないのでございます。
いったい1895年に映画というものが誕生して以来、T-1000ほどひとつの作品の中で繰り返し攻撃され、倒され、木っ端みじんにまで破壊された一個のキャラクターというものがあったでしょうか(またもホラーは別として)。
人の上に君臨するあらゆる秩序のうち、生死の秩序ほど絶対的なものはございません。それなのにT-1000をはじめとする「しぶとい」悪役たちは、その絶対性すらも逸脱しようとするではございませんか。
生死の秩序を踏み越えた者によって執拗に追い回されるということの恐怖、そこには敵が単に強大であるとか残酷であるということとは次元が異なる、いとも冷ややかな絶望感がございます。
しかもその絶望感の担い手というのが、見た目はちっとも強そうではない細おもてのあんちゃんであるということのイメージギャップ、かつ、機械のくせに狡猾で、人物のコピーからフレンドリーな振る舞いまで応用の幅がとんでもなく広い殺人マシーンという反則的な性能が相まって、「何だこいつ!!」感に大いに貢献しているのでございます。
そんなわけで
もとより既存の秩序を蹴破ってはばからない悪役たちのアウトローぶりを愛するのろではございますが、わけてもT-1000の突き抜け具合には、いつ見ても格別の清々しさを覚えるのでございました。
ああ貴重な人生の時間と限られた能力を費やして何をやってるんだか。
まあのろの人生ごとき別に貴重でもないか。もう疲れちったし。
>「これこそガガ」みたいに言わせる衣装
そうですね。好きなアーティストを真似したり、色々と奇抜な格好をなさるのはいいんですが、いまいち彼女自身のコンセプトが感じられません。この一貫したコンセプトのなさと楽曲の凡庸さとが、彼女がコピーキャットと称される大きな要因になっているのではないでしょうか。
ガガのハッチャケた部分とか、ボウイとかQueenとかノミを愛してくれてる部分は好きなんですけど、曲に関してはあんまり好きじゃない。。。
ノミ様みたく音楽にもアクが強ければメジャーにヒットすることもないし、ポップ性を追求して自分を売ることにはうまい人だと思います。でも「これこそガガ」みたいに言わせる衣装(ノミ様のエナメル段ボール衣装とか、フレディの市松タイツ。ボウイの始祖鳥ジャンプスーツみたいな)が必要なのかな、と。
今後音楽に関しても更にハジケて欲しいですね。
しかし一度完全版を見てしまうと、普通の劇場公開版を見ても「サラのチップぶちこわしかけシーンやT-1000のバグがねーじゃねーか!」と不平を言いたくなるというのに、そこからさらにカットされたものが放送されるわけですから、多少のがっかり感は否めません。
>牛乳ごと串刺し
先日の放送ではその直前の「今夜はビフシチューよ」で思わず噴き出してしまいました。何言ってんだT-1000。
ちなみにワタクシが好きな串刺しシーンは終盤、高速道路で液体窒素入りタンクローリーの運転手さんをぶっ刺す所です。相手に目を向けることすらせず、ずんずん歩みがてらにさくっと。マシーンですなあ。
公共の電波にてノミの名前が!
そのニュースを聞くだけでも嬉しい。しかしそのガガ嬢のコメントに対しては「ちょっと待て」と言いたい所です。
ガガ嬢には熱狂的なファンがいらっしゃいますし、ワタクシの方は根っからのチキン野郎ときておりますので、彼女についてあまり否定的なことを言うのは差し控えたいと思います。しかしこのようなコメントに出くわしますと、いったい彼女はクラウス・ノミの音楽性についてどう評価しているのだろうか、単に見た目の奇抜さだけを「リスペクト」しておいでなのではないだろうかと、いささか眉をひそめずにはいられません。ワタクシの聴いたかぎりのことではありますが、彼女の楽曲にはノミのそれようなオリジナリティも、時代やジャンルの壁を超越した美しさも欠いているように思われるからです。
民放だともはやカット比較が楽しめるレベルだけど。。
牛乳ごと串刺しのシーンなんて感動モノです!
そういえば、私の友達曰く久しぶりに公共の電波にノミ様が登場したらしいです。
最近のフジテレビでガガへインタビューをしたところ、「私はクラウス・ノミの生まれ変わり」とか言ったらしいです。見たかったな。。。