4/22 『ボストン美術館展』2の続きでございます。
さて、目的であった絵巻を見てしまうと、一仕事終わったような心地になりまして、狩野さんの金屏風やら長谷川等伯の竜虎図やらを眺めつつぶらぶらと進んでまいります。
こういう散漫な見方をするのはたいへん勿体ないことでございます。しかし年々歳々、一目見て気に入らなかったものにはそれ以上の時間とエネルギーを費やしたくない、というけちくさい心性が強まっておりまして、パッと見てグッと来なかったものの前ではつい歩みが速くなってまうのでございました。
こういう鑑賞方法は実際、省エネではあるのですが、毛嫌いしていたものを改めて見直すとか、自分からその作品や作者に歩み寄ってみるとか、せめてどうして嫌なのかという点をじっくり考える、という機会をはなから放棄しているということであり、とても誠実な鑑賞態度とは申せません。
いつまでも生きられるわけではないからには、せめて好きなものに時間とエネルギーを集中させるべきか。
あるいは、いつまでも生きられるわけではないからこそ、せめて今目の前にあるものとできるだけ誠実に対峙するべきか。
てなことをうだうだ考えている間に死んじまうんだろうなあ。
さておき。
そんなぐあいでちょっとだれて来た所へ颯爽と、ではなくむしろ飄々と、いとうさん登場。
のろさんがいとうさんと言ったら伊藤若冲さんのことでございます。
いとうさんの生き物愛をひしひしと感じる、なんとも可愛らしい鸚鵡図でございます。
くく~っと立ち上げたトサカの固いような柔らかいような質感もさることながら、尾羽の付け根にふさふさとかぶさる下腹部分の羽の繊細な描写がたまりません。
ボストン美術館はいとうさんの作品もけっこう持ってらっしゃるようで、鸚鵡図といえば、本展には来ておりませんけれどもこんなのもございます。
きゃっ。
もう卒倒しそうな愛らしさ。
やっぱり、いかに華麗でも想像で描かざるをえなかった鳳凰の絵なんぞより、実物の観察に基づいたこういう作品の方がずっと魅力的だと、ワタクシは思いますよ。
今回来日しているのはこの一点だけかと思いきや、何と珍しい、人物画(羅漢図)があるじゃございませんか。
しかし主役の羅漢たちよりも、添え物である木の描写がのびのび&独特すぎて、ついそちらの方に目が行ってしまいます。
いとうさん、絶対人物よりも楽しんで描いてるでしょう。わかりますよ。
後半の展示品の中では、宗達派の絵師による『芥子図屏風』も印象に残りました。
これが左隻、こっちが右隻。
金地の背景にポポンポンポンと心地いいリズムで芥子の花が立ち上がり、赤、白、緑のミニマルな装飾性が醸し出す味わいは、セリのおひたしのように爽やかでございます。
あまりにも後味爽やかなので、いっそこのまま帰りたい所ではございました。ところがどっこい、この後には怒濤の蕭白部屋が控えているのでございます。
さあ、東の蕭白、西のルーベンス。
何の番付かって。
「すごいけど好きじゃない画家番付」でございます。ちなみに大関は梅原龍三郎とウィリアム・ブレイクあたり。
それでも中盤あたりで鑑賞できたら、もっとじっくり向き合う気になれたと思うのですが、今回はそろそろほうじ茶でしめたいタイミングでビーフストロガノフ バターライス添えを出されたような心地であり、ぐったり疲れて早々に退散してしまいました。
大作ぞろいだったのに、なんてもったいない。こういうことをすると5年越しくらいでじわじわと後悔が押し寄せるんでございます。そうはいっても、あの押しが強くアクも強くケレン味も強い作品群にぐるりを囲まれるのは、おしくらまんじゅうの中心でぎゅうぎゅう押しまくられるような感じで、なかなかにしんどかったのでございますもの。
そんなわけで
例によって昼食抜きで夕方まで入り浸っていたわけでございますが、気分的には芋粥をよばれた五位のごとくお腹いっぱいで、とはいえ五位とは違って幸福な満腹感とともに美術館を後にし、食後酒代わりにピーター・バラカンさん著『ラジオのこちら側で』を読みつつ、いい気分で帰路についたのでございました。
さて、目的であった絵巻を見てしまうと、一仕事終わったような心地になりまして、狩野さんの金屏風やら長谷川等伯の竜虎図やらを眺めつつぶらぶらと進んでまいります。
こういう散漫な見方をするのはたいへん勿体ないことでございます。しかし年々歳々、一目見て気に入らなかったものにはそれ以上の時間とエネルギーを費やしたくない、というけちくさい心性が強まっておりまして、パッと見てグッと来なかったものの前ではつい歩みが速くなってまうのでございました。
こういう鑑賞方法は実際、省エネではあるのですが、毛嫌いしていたものを改めて見直すとか、自分からその作品や作者に歩み寄ってみるとか、せめてどうして嫌なのかという点をじっくり考える、という機会をはなから放棄しているということであり、とても誠実な鑑賞態度とは申せません。
いつまでも生きられるわけではないからには、せめて好きなものに時間とエネルギーを集中させるべきか。
あるいは、いつまでも生きられるわけではないからこそ、せめて今目の前にあるものとできるだけ誠実に対峙するべきか。
てなことをうだうだ考えている間に死んじまうんだろうなあ。
さておき。
そんなぐあいでちょっとだれて来た所へ颯爽と、ではなくむしろ飄々と、いとうさん登場。
のろさんがいとうさんと言ったら伊藤若冲さんのことでございます。
いとうさんの生き物愛をひしひしと感じる、なんとも可愛らしい鸚鵡図でございます。
くく~っと立ち上げたトサカの固いような柔らかいような質感もさることながら、尾羽の付け根にふさふさとかぶさる下腹部分の羽の繊細な描写がたまりません。
ボストン美術館はいとうさんの作品もけっこう持ってらっしゃるようで、鸚鵡図といえば、本展には来ておりませんけれどもこんなのもございます。
きゃっ。
もう卒倒しそうな愛らしさ。
やっぱり、いかに華麗でも想像で描かざるをえなかった鳳凰の絵なんぞより、実物の観察に基づいたこういう作品の方がずっと魅力的だと、ワタクシは思いますよ。
今回来日しているのはこの一点だけかと思いきや、何と珍しい、人物画(羅漢図)があるじゃございませんか。
しかし主役の羅漢たちよりも、添え物である木の描写がのびのび&独特すぎて、ついそちらの方に目が行ってしまいます。
いとうさん、絶対人物よりも楽しんで描いてるでしょう。わかりますよ。
後半の展示品の中では、宗達派の絵師による『芥子図屏風』も印象に残りました。
これが左隻、こっちが右隻。
金地の背景にポポンポンポンと心地いいリズムで芥子の花が立ち上がり、赤、白、緑のミニマルな装飾性が醸し出す味わいは、セリのおひたしのように爽やかでございます。
あまりにも後味爽やかなので、いっそこのまま帰りたい所ではございました。ところがどっこい、この後には怒濤の蕭白部屋が控えているのでございます。
さあ、東の蕭白、西のルーベンス。
何の番付かって。
「すごいけど好きじゃない画家番付」でございます。ちなみに大関は梅原龍三郎とウィリアム・ブレイクあたり。
それでも中盤あたりで鑑賞できたら、もっとじっくり向き合う気になれたと思うのですが、今回はそろそろほうじ茶でしめたいタイミングでビーフストロガノフ バターライス添えを出されたような心地であり、ぐったり疲れて早々に退散してしまいました。
大作ぞろいだったのに、なんてもったいない。こういうことをすると5年越しくらいでじわじわと後悔が押し寄せるんでございます。そうはいっても、あの押しが強くアクも強くケレン味も強い作品群にぐるりを囲まれるのは、おしくらまんじゅうの中心でぎゅうぎゅう押しまくられるような感じで、なかなかにしんどかったのでございますもの。
そんなわけで
例によって昼食抜きで夕方まで入り浸っていたわけでございますが、気分的には芋粥をよばれた五位のごとくお腹いっぱいで、とはいえ五位とは違って幸福な満腹感とともに美術館を後にし、食後酒代わりにピーター・バラカンさん著『ラジオのこちら側で』を読みつつ、いい気分で帰路についたのでございました。