のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

乱歩忌

2006-07-28 | 忌日
本日は
江戸川乱歩の命日でございます。
『◯◯』の乱歩
と言った時、貴方なら『◯◯』に何を充てます?
人間椅子? 黒蜥蜴? 押絵と旅する男?
ちなみに当ブログのございますよ口調は、
『押絵と旅する男』の語りからいただいているんでございますよ。



しかしのろにとって、乱歩と言いましたら『少年探偵団』シリーズの乱歩、なんでございます。
ええ、大好きでございました。
怪人二十面相が。

図書館で一冊ずつ借りては読み進めて行ったのでございますが
返却期限が来るまでに、ヤツの出て来る箇所ばかり繰り返し拾い読みしたものでございます。
昔も今もやることがマニアックだ。すみませんB型なんです。

ヤツは本当にお茶目でございますよ。

大 怪 盗 らしく、
犯行の前にはきちんとターゲットに予告状を届けておくのです。
普通に盗りゃいいだろうって話でございますが、それではツマラナイのでございます。
派手なのが好きなんでございます。
なにしろ、全 身 金 ピ カ の衣装で登場したこともあるお方でございますからね。

大 怪 盗らしく、
変装がものすごく上手でございます。

「なにしろ自分の顔すら、忘れてしまったほどだからね。」

おおお、そりゃアイデンティティ・クライシスなのではございませんか、怪人。

そして
大 怪 盗 らしい奇想天外なトリックや、驚異の発明品、あるいは
大 怪 盗 らしからぬアホトリックや着ぐるみで、わたくしたちを楽しませてくれるのでございます。

現金には興味が無く(現ナマに手を出すのは、たくさんの手下をやしなうためらしい 笑)、
貴重な美術品をコレクションするのが目的で盗みを働くんでございますが
ライバルの明智君に捕まるたびに、収集品は全部召し上げられてしまうのです。
それでも、脱獄してから半年もすればコレクションはおおかた元通りになるとうそぶいておりますから
またコツコツ盗みなおしているんでございましょう。けっこう地道な蒐集家です。
その半年の間、明智君はいったい何やってるんでしょうか。
明智君に活動を悟られないように、ヤツも地味~に盗っているんでしょうか。
「いまに見てろ」とかつぶやきながら。

そう、ひとりごとがめっぽう多いんでございます、この人。
「フフフ・・・まさかこのおれが◯◯を計画しているとは気付くまい」ですとか
「フフフ・・・まさかあれがこの二十面相の変装だったとは気付くまい」てな感じのことを
しょっ ちゅう つぶやいてらっしゃる。
しかもそれを少年探偵団のメンバーに聞かれていたりして。

そして
「このおれがそう簡単につかまると思ったらおおまちがいだ」とか何とか言いながらも
絶 対 捕 ま っ て し ま うのでございます。
あるいは、爆死を匂わせつつ逃亡したり。

つまる所、絶対に明智君や小林少年に勝てないのでございます。
あんなに頑張っているのに。

そ れ で も な お 、
「ワハハハ・・・明智君、今度もまたおれの勝ちだね」
なんて、嬉しそうにのたまうんでございますよ。

小林少年に向かって「つくづく君がかわいくなったよ」なんて言っておりますが
ええ、言ってる当人の方がよっぽど可愛いんでございます。

『少年倶楽部』連載当時は少年探偵団バッジ(BDバッジ↓)や、少年探偵手帳が発売されていたとのことですが


『新潮日本文学アルバム 江戸川乱歩』1993 新潮社

のろは少年探偵団よりむしろ、二十面相の手下になりたかったクチでございます。
アジトに潜入していた小林少年をひったてて、監禁用の小部屋に放り込みながら
「ふん、いまいましいチンピラ探偵め。すぐさま始末してやりたい所だが、なにしろ、うちのおかしらは血がお嫌いなんでな」
とか何とか、言いたいではございませんか!

かように二十面相ファンでございましたので
グリコ森永事件で「かい人二十一面相」なる輩が巷を騒がせた時には
のろは事件とは全く関係のない所で立腹しておりました。

立腹1:変装もしていないくせに、その名を名乗るな。
立腹2:美術品蒐集目的でもないくせに、その名を名乗るな。
立腹3:怪 は漢字で書け。

あー ぷんすか。
でございました。

ともあれ、怪人二十面相という素敵なキャラクターを生み出してくれた乱歩さんには
最大限の感謝を捧げたいと思っております。

甚だ冗長になってしまいました。
二十面相風に、颯爽とシメたいと思います。

ワハハハ・・・それでは諸君
またあおう・・・あばよ!


と見せかけて追記。
二十面相の本名は遠藤平吉さん でございます。サーカス団出身。
なんかもう
この時点ですでに、明智小五郎に負けております。雰囲気的に。

『グレープフルーツ・ジュース』

2006-07-24 | 
『グレープフルーツ・ジュース』(オノ・ヨーコ 1993 講談社文庫)を改装しました。



同寸のクラフト紙2枚の
1枚をを縦方向に細切り、もう1枚を横方向に細切りしまして
彩色し、織り合わせました。



もっと地味な、有るか有らぬか分からぬ程度の
押さえた色調にする予定だったのでございますが
のろの感性が「こうしたいよう」とのたもうたものですから、致しかたございません。

見返しは黒。




2年ほど前になりましょうか、滋賀県立近代美術館で開催された
『YES オノ・ヨーコ展』にて
初めて彼女の作品を目の当たりにしました。
知的でユーモラス、かつ非常に真摯な作品群に
「世界に対するこういうアプローチの仕方もあるのか」
と、目を開かれた心地がいたしました。

本書はそもそも1964年に限定500部で発売された
作品集『グレープフルーツ』からのセレクトでございまして
オノ・ヨーコ氏の作品のエッセンス、即ち imagine---想像すること の持つ、
強靭で普遍的なパワーを
認識さてくれるのでございます。

ガレシャン話

2006-07-18 | 音楽
よく降りますこと。

6月だろうと7月だろうと、こうも ざんざかざんざか 雨の降る時候には
山田晃士と泥沼楽団『水無月のマリオネット』を聴かねばなりません。

降り出した雨に 穴だらけの傘で
ラッタッタ ラッタッタ ラッタッタ 辺りは水溜まり
神様もう少し 仲良くしませんか 
濡れねずみでおどける 水無月のマリオネット

(アルバム『世紀末キャバレー』所収)

メロディーをお届けできないのが大変残念でございます。

ヴォーカルの山田晃士氏、ずいぶん以前ですが『ひまわり』という曲がたいそうヒットいたしましたので、ご記憶の方もいらっしゃいましょう。

ひまわりがぁ~ ・・ 揺れているぅ~ ・・ 風も無くぅ~ ・・・

と いった曲でございます。
当時ののろは音楽にはほとんど関心がございませんでしたが
しばしばラジオや街角で耳にしたこの曲の、歌詞に漂う独特の世界観や山田氏の力強い歌声は
妙にのろの心に響き、記憶の中に刻みこまれたのでございました。
まさかそれから10年も経って、こんな所 ↓ で氏とまみえようとは思いもいたしませんでしたが。

ガレシャンのすべて

ガレージシャンソンショー。(「レ」は巻き舌で発音しましょう)
ヴォーカル&アコーディオンの、異色で愉快な ふたりぼっちユニット でございます。

↑ トップページの写真の向かって右、ややクラウス・ノミっぽいメイクの人物(爪も黒いのですよ)は、アコーディオン弾き・佐藤芳明氏。
いや、「IQ 80を誇るアコルデオン弾き自動人形」でございました、ここでは。

佐藤芳明 蛇腹活動報告

ちなみに、宮崎駿作品『ハウルの動く城』の主題歌で流れるアコーディオンはこの方の演奏でございます。
うまいことに今週の「金曜ロードショー」(7/24 21:00~ 読売TV)で本作が放送されますので
皆様ぜひチェックしてみてくださいませ。

ガレージシャンソンショー。
昨年の9月にクラウス・ノミを発見してしまうまでは、のろの1番好きなミュージシャンでございました。
即ち、今は2番目なのでございますが
おお、残念なことに、今月末をもって活動をお休みされるとのこと。
やんぬる哉!
この、ひねくれと諧謔精神に満ちあふれた、
そして確かな歌唱力と演奏技術に支えられた、
シンプルかつパワフルかつ笑かす楽曲の世界が
たった2枚のアルバムを残して終息してしまうとは!
どっかで聴いた話だ!涙

しかし、お二人の仲が悪くなったとか、音楽の方向性が異なる、という理由での活動休止ではございませんし
それぞれ音楽活動は続けていかれるようでございますから
いつか再結成する可能性なきにしもあらず。

あまり期待せずに待とうと思っております。

ちなみに、彼らのファーストアルバムには
ボーナストラックとして、ガレシャンとしての『ひまわり』が収録されております。
素晴らしい歌唱力を誇る山田氏の、艶のある、力強いヴォーカルに
囁くような、語るような、佐藤氏のアコーディオンが絡んでまいりまして
これはもう本当に
名演奏なのでございます。

↓レヴュー文がgoodでございます。

Amazoncojp: ガレージシャンソンショー ホーム ガレージシャンソンショー

Amazoncojp: 狂歌全集 ガレージシャンソンショー ホーム ガレージシャンソンショー

『ダーシェンカ』

2006-07-15 | 
『ダーシェンカ』(カレル・チャペック 新潮文庫 1995)を改装しました。





紙版画です。
表紙のデザインはカレルの兄、ヨゼフ・チャペックのブックデザインから拝借しました。



売り物ではなく飽くまでわたくし蔵書でございますので、お許しください、ヨゼフさん。

『ダーシェンカ』は要するに、子犬の生態観察日記でございます。
ブックカバーの裏表紙に、本書の魅力をみごとに要約した紹介文がございます。

犬の大好きだった作家が飼っていたフォックステリアのイリスに、かわいい子犬が生まれました。名前はダーシェンカ。やんちゃでいたずらな彼女に、作家はもう夢中です。毎日の成長の様子を、写真に撮ったり、肖像画を描いたり、あげくは子犬のためにおとぎ話まで作る始末。世界中の犬たちと、そして犬にてを焼き、それでも犬がかわいくてたまらないすべてのひとたちに贈る愛犬ノート。

チャペック本人の手になる挿絵や、数々の「肖像写真」の愛らしさもさることながら
なんといっても可愛らしいのは、ダーシェンカに べ た 惚 れ のチャペック氏なのでございますよ。


カレル・チャペック、
小説家、エッセイスト、ジャーナリスト、そして童話作家。
のろは子供時代(あったのですよ)、『長い長いお医者さんの話』に親しみました。
兄ヨゼフの手による挿絵が沢山盛り込まれているのですが、のろはその絵を眺めては、つくづく
「こんなヘンテコでへたっぴいな絵を出版物に載せてもいいものだろうか」
とコドモ心に考えたものでございました。
コドモのろよ、君の絵だって決して人に誇れるものではなかろう と
肩に手を置いてつくづくと諭してやりたいところでございます。

長い長いお医者さんの話


先に申しました通り、『ダーシェンカ』の挿絵は作者本人の手になるものです。
兄ヨゼフの線描にも似た、なにやら飄々としたユーモアのただよう
愛すべきイラストなのでございますよ。

beloved one への侮辱を看過できるか

2006-07-13 | Weblog
ワールドカップの話題を引っぱるつもりはないのですが
ジダンの頭突き退場問題について
わたくしはどうしても、ふたことみこと申したい。
話題が当ブログの主旨からしばし外れることをお許しください。

皆様ご存知の通り
ワールドカップ決勝戦で、フランスの主将ジダンは
イタリアのマテラッツィ選手にヘッドバットをかまして退場処分となりました。
そのきっかけとなったマテラッツィ選手の挑発-------言葉による侮辱-------の内容が
ようやく、当事者ジダン本人の口から明らかになりました。

いわく、彼の母と姉を激しく中傷する言葉であったと。

わたくしはこの事件が起きた当初、漠然と「挑発に乗ったジダンも悪いさ」と思っておりましたが
今や、ジダンは責められるべきではないと考えております。

マテラッツィ選手の発した言葉が、ジダン本人ではなく
彼の家族をはずかしめるものだったというからには。

試合に勝つために、自分への侮辱に耐える
これは、スポーツマンとして当然とるべき態度です。
しかし
試合に勝つために、自分の愛する者への侮辱に耐える
これは、人間としてあるべき姿ではない。

暴力や仕返しを奨励するつもりは毛頭ありませんが
自分の愛する人が侮辱を受けた時は、いかなる場合であれ
侮辱者に対してただちに抗議してしかるべきだと、わたくしは思います。
とりわけ、侮辱された当人がその場におらず、従って当人が抗議することも許すこともできない場面においては。
もちろんその抗議は、冷静かつ非暴力的なものであるべきなのですが。

ジダンのみが処分されたことに、あまつさえMVP取り消しの可能性が示唆されていることに、
わたくしはどうしても納得できません。
サッカーとはそういうものなのだとしても、納得できません。

言葉の暴力に身体の暴力で応じた、という点が悪かったのでしょう
しかし
心理的な暴力の方が身体的な暴力よりも罪が軽いということは決してありません。
可視的か不可視的かという違いこそあれ
そのどちらも、人生を狂わせるほどの傷跡を残し
時には人を死に至らしめるほどの破壊力を持っているからです。

相手選手に意図的に頭突きをくらわす、という
スポーツマンとして恥ずべきことをしてしまったジダンは
記者会見で謝りました。あの試合を見ていた全ての子どもたちと、教育者に対して。

ジダン退場の立役者となったマテラッツィ選手も、謝ってほしい。
あの試合を見ていた全ての子どもたちと教育者、そして彼が侮辱した人に対して。

再三にわたって侮辱の言葉を投げかけるという彼の行動が
意図的なものか、試合でエキサイトしすぎた故のことなのかは分かりませんが
相手の愛する者を侮辱する
という、人間として非常に恥ずべきことを、してしまったのだから。


Yahooニュース - スポーツナビ - ジダン「後悔はしていない」






ブーイング

2006-07-10 | Weblog
今回のワールドカップサッカードイツ大会決勝戦に対して
2つのブーイングを贈りたいと思います。
まずは

ぶー ぶー ぶー 

これは、一発レッドをくらって退場してしまったジダンに。

それから

 ぶー ぶー ぶー ぶー ぶー ぶー ぶー 

これは、ジダンをあおったイタリア選手マテラッツィに。

以上。

『印象派と西洋絵画の巨匠展』5

2006-07-09 | 展覧会
さてさて
ポルトガルに勝って
ドイツの3位が決定。

クリンスマン監督、相変わらずぴょんぴょん跳ねて喜んでらっしゃいました。
4年後も、この監督の喜びのジャンプを見たいものでございます。

さておき。
通常は3回以内に収める展覧会レポートをここまで引っぱったのは
どうしてもモランディに触れたかったからでございます。

モランディ
モランディ2

そう、本展でモランディも見られるのですよ!
しかしチラシにもHPにも、モランディのモの字も載っていないのは何たることか。怒。

ともあれ
モランディの作品の中で、静かに息づく「もの」達を見ることは、たいそう大きな喜びでございます。
モランディの描いた「もの」たちは、そこに あ る というよりも
わたくしたちと等価な存在として、世界の、宇宙の一部として、そこに い る という感じがいたします。

ここでちと、これまたのろの大好きな日本画家、徳岡神泉の言葉を引用させていただきます。
自作『蕪』について語ったものでございます。

唯一つの蕪が置かれてある。
じっと見ていると何か不思議な力強さと息吹さえ感じる。
そしてこの物の中に宇宙のあらゆるものが凝集している。
じっとここに在る、という気持ちです


(現代日本の美術 4 p113)

この言葉、そっくりそのままモランディが語ってもおかしくないと思うのですよ。
人間による意味付けや価値付け以前に、「もの」、世界、人間、等々は存在しているわけであって
モランディも神泉も、その、いわば意味付け/価値付けの彼岸にある「もの」を描いているように感じられるのです。

ただ、そこに、在る、それだけ。
良いも悪いもなく、そこに、在る、それだけ。
それだけのことでありながら、確かに宇宙の一端を担って、存在している「もの」。

存在していることの免罪符を常に欲しがっているのろといたしましては
モランディや神泉の絵の中の「もの」たちが
「ただ無為に存在している」ということへの、肯定のメッセージを発しているように思われるのです。
それで
彼らの作品を前にすると、胸がいっぱいになってしまうのでございます。

ちなみに『蕪』は ↓ こちら。

生誕110年記念 凝視の眼 徳岡神泉展 - [日本画]All About


はい、ずいぶん冗長になってしまいましたので
ここらで切ります。
とにもかくにも、行って損のない展覧会でございましたよ。

『印象派と西洋絵画の巨匠展』4

2006-07-07 | 展覧会
7/5の続きでございます。
どうも 前半ちまちま書きすぎました。
以下はさくさく進みたいと思います。

バルビゾンに続いては本展の目玉商品、印象派でございます。
こう、時系列に沿って見て参りますと
ある様式の次に別の様式が現れたことの必然性が、知識としてではなく体験的に分かってよろしうございますね。
現代のわたくしどもにとって印象派はごく当たり前の「よいもの」となっているわけでございますが
19世紀末におけるいろいろな面での印象派の 斬 新 さ を、小規模ながら体験できました。

最後に来ますのが「20世紀」セクション。
いきなり100年ひとまとめかい! というツッコミは置いといて、さくさく進みます。
ここでは思いがけなく、ピカソ「青の時代」のエッチングを見ることができました。
『プロフィール』=横顔、でございます。

のろは何と申しましても、「青の時代」と「バラ色の(サーカスの)時代」のピカソが好きでございます。
げっそりとやせこけた身体、折れそうに細くスジばった首、薄い唇、孤独な面差し。
沈んだ色彩やモチーフとは裏腹に、「青の時代」の作品は
見る者をぐぐぐっと惹き付ける、強い牽引力を持っているように思います。
遠くからチラと見ただけでも、もうその絵の方へとぐんぐんと引っぱられてしまうような心地がするのです。
キュビズム以降の作品の多くは、反対に、こちらに向かって ばばーーん と押し出して来るようなエネルギーを感じるのでございますが。

本展で見られる作品は、サイズも小さく、サインも入っていない、まるで描きかけのような作品でございますが
そのはかない横顔は、例によって強烈にのろを惹き付けまして
近くから遠くから、いくら見ても見飽きることがございませんでした。

それからピカソもう1点、『鳩』でございます。
これを見るために行きました、ハイ。


Copyright:2006-Succession Pablo Picasso-SPDA(JAPAN)

15×25cmくらいの小品を想像していたのですが、実物はもっと大きいものでございました。
目測、50×80cmといった所でしょうか。
白と黒の絵の具で描かれているように見えますが、使われているのは黒一色です。
紙の白を残すように描かれているのです。
塗りつぶされた黒い画面の中、白いシルエットとなって佇む一羽の鳩。
幅広い筆のストロークが びゅうん びゅうん と、大胆に勢いよく画面上を走っています。
かくも大胆なストロークでありつつ、鳩のシルエットのなんと的確なこと。
ほとんど最小限の筆致で描かれた鳩は
なんとなく孤独な、おだやかな雰囲気で
弱いけれども確かに息づく生命感を発しております。
ピカソのものすごいデッサン力と、ものの本質を捉えようとする眼差しを
しみじみと感じる作品でございました。

すみません、もう一回続きます。



『印象派と西洋美術の巨匠展』3

2006-07-05 | 展覧会
まだワールドカップなのでございますが

ドイツが負けてしまって
朝っぱらから大いに落ち込んだのろ。
「NHKラジオドイツ語講座」にも身が入りません。
die Depression でございます。
しかし、世間も時間も午前中〆切のお仕事も、ドイツが負けたからといって待ってはくれません。
こんな時は精神のカンフル剤、クラウス・ノミの『Rubberband Laser』(ラバーバンド・レーザー = 輪ゴムのレーザー)
を聴いて、すみやかなデプレ脱却を計らねばなりません。

♪ あい わな らっ そぉー ゆぅー うぃず まい
      あばべぇーんど えいざるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる(巻き舌)

いやあ名曲だ。 2分で復活。
のろはこれさえ聴けば、いかなる悲しみの淵からでも4分22秒以内に帰還できるような気がいたします。

矢でも鉄砲でもデルピエロでも持って来いってんだぃ!チクショー!

それはそれとして
7/1の続きでございます。

「ロマン主義」「アカデミズム」の次は「バルビゾン派」。はいはい、ミレーさんでございます。
しかしここでの見どころは、コローの『ユディット』でございますね。
コローはもちろん銀灰色の風景画で有名でございますが、のろはむしろコローの人物画が好きなのでございます。
落ち着いた、洗練された色づかいもさることながら
描かれた人物の瞑想的な眼差しや、そのポーズ、手の表情や最小限の舞台装置が醸し出す
寡黙な詩情がいいんでございます。

本展で見られる作品は、このタイトルを与えられなければ
絵の中の女性がユディットーーーその美貌で敵将を籠絡し、寝首をかいて国を救った未亡人ーーーだとは、まず100%分かりません。
ユディットであることを示すアトリビュートが何ひとつ描かれていないからです。
剣もなく、切られた首もなく、首袋を運ぶ侍女もいません。
やわらかにくすんだ紅のドレスを身にまとい、銀灰の荒野をひとり歩むユディット。
敵将のもとへと向かう場面なのでしょう。
うつむいた顔には影がさし、表情は読み取れません。

クリムトはユディットに、性と死のあわいを行く恍惚の表情を与え
クラナッハは勝ち誇る小悪魔のような蟲惑的な表情を与え
17世紀の女流画家ジェンティレスキは、満身の力を込めて男の首を切る彼女に、厳しく眉根をよせた表情を与えました。

コローのユディットは
寡欲で慎み深かったという画家の個性を反映したものか
とりたてて何かを主張するでもなく、ひとり物思いに沈んでいるのでありました。


記事がこま切れになってすみません。あと2回くらい続きます。


最後にひと言。
3位決定戦ではおおいに闘ってくれ、フリンクス。

もうひと言。
試合中、ぶつかって倒れた伊の選手をいたわるレーマンの姿が印象的でございました。

もうひと言。
泣いているシュヴァインシュタイガーをなぐさめる監督の姿も印象的でございました。

2006FIFAワールドカップ - フォトゾーン

よくやったよ、ドイツ。

『印象派と西洋絵画の巨匠展』2

2006-07-01 | 展覧会
ワールドカップ。
ドイツとフランスが勝って上機嫌なのろでございます。
ドイツはクリンスマン監督がナイスキャラクターでございますね。
ご覧下さい、この喜びよう。



↑はワールドカップ公式サイトの写真から。
↓これもいいですね。
Yahooスポーツ 2006FIFAワールドカップ? - 写真ニュース


それはさておき
6/30の続きでございます。

『印象派と西洋絵画の巨匠展』に於けるのろ的めっけもんを、展示の順に沿ってご紹介いたします。

1:アカデミズム絵画の迫力

展示のトップを飾りますのは「ロマン主義」セクションでございます。
ドラクロワによるエキゾチックな人物像や、ジェリコーの騎馬兵が迎えてくれます。
ちなみにジェリコー、馬が大好きだったのだそうで。昨年のルーブル展には『白馬の頭部』という作品が来ておりましたね。
白馬の眼差しは穏やかで、まるで高名な人物の肖像画のように静かな尊厳を持っており
小品ながらなんとも印象的な作品でございました。

閑話休題。ロマン主義につづくは「アカデミズム」セクションでございます。
しばしば否定的な文脈で使われるこの言葉をセクション名に持って来るとは、ちと面白いではございませんか。
アカデミックな絵画、すなわち古典的技法に忠実に描かれた、写実的な作品が展示されております。
アカデミズムと聞きますと「守旧的」「権威主義的」というイメージが先行してしまうのでございますが
実際の作品を前にしますと、その迫真性に、いたく心を動かされました。

緑したたる山麓で、水煙を上げて流れ落ちる滝。
夕闇の迫る林の中を静かに流れる川。
シルクのソファに体をもたせかけて、はにかむように笑う小さな子供。

3次元にあるものを2次元に再現する、その技術の高さもさることながら
のろを感動せしめたものは、モチーフに向けられた、画家の執拗なまでの眼差しでございます。

ひとくちに 写実的絵画 と申しましても
「へー、上手いな~」という感想しか持てないものもあれば
そのあまりの素晴らしさに、しばし呼吸することを忘れるような作品もございます。
思うに、「写実」といっても、見に見えているものを写して・真似して・描く、というだけではダメなのです。
本当に感動的な写実作品は
視 覚 のみならず、 五 感 に訴えて参ります。

そういう作品の前に立ちますと、そこに描かれたもろもろのモチーフが
もろもろの情報を伴ってーーーせせらぎの音、ヒンヤリとした空気、夏草のにおい、人物の肌の湿り気、身につけている衣服の肌触りまでも伴ってーーー鑑賞者の感覚に飛び込んで参ります。

例えば本展の『漁師の娘』(ブーグロー)。
水辺を背景に、色鮮やかなスカーフで頭を包んだ若い娘さんが
長い柄のついた漁網を右肩にもたせかけ、くつろいだポーズで立っております。

彼女の体温、その肌のしっとりとした湿り気
うっすらと赤みのさす耳朶にくるまれた軟骨の硬さ、あるいは柔らかさ。
肘までまくり上げたブラウスの、少しごわついた手触り
なめらかで繊細な、スカーフの肌触り。

その感触までもが、観る者にありありと想像される、いやむしろ、観る者の中へ飛びこんで来るのでございます。

このような作品と出会ったときは、こう思わずにはいられません。
「ああ、何と よ く 見 て いることだろう!何という眼差しだろう!」

写実性を誇る作品を描くなら
見たものを正確に再現する技術、そして
かたちや陰影を的確に捉える明晰な観察眼は必須でございます。
しかし、なおその上に
対象に没入していくような、あるいは対象に恋するような、熱い眼差しがあってこそ
鑑賞者の心を揺さぶる作品を描き得るのではないでしょうか。


本展の素晴らしい「アカデミック」作品を前にして
「へー、うまいな~」作品と
「こっ  これぁスゲーよ!」作品との違いは、
技術的な優劣よりもむしろ眼差しの熱さ
にあるのではないかと、のろ思ったのででございました。

続く。
でございます。