先日NHKで憲法9条をめぐる討論番組が放送されておりましたね。
全部見たわけではないのですが、見た範囲で思う所がございましたので、ぼつぼつ語らせていただきたく。
護憲派と改憲派の一般人および有識者が自らの意見を述べ合うという番組で、護憲派同士、改憲派同士でも見解の違いはありましたが、主張の要はおおむね以下のようになるかと思います。
護憲派...戦争を繰り返してはならない。
軍隊と交戦権の保持を認めれば、日本が戦争に参加する危険性が大幅に高まる。
9条という歯止めがなくなれば、日本はますますアメリカの良いように使われてしまう。
改憲派...国防のためには軍隊と交戦権が必要。
交戦権も集団的自衛権も持たないのは現実的ではない。
アメリカの言いなりにならないために、自国軍を持つべき。
建設的な意見もありましたが、お互いが自分の主張を言い続け、相手の要点としていることに正面きって答えることはせぬままという場面が多かったように思います。
護憲派のみなさんには、軍隊と交戦権を放棄するなら国防をどうするのか、ということについて話していただきたかったし、改憲派のみなさんには、交戦権を認めるというのなら、戦争の悲惨さについてどう考えているのかをお聞きしたかった。
軍と交戦権の放棄→国防どうする、という流れになったときは、いきなり無抵抗主義の話になってしまいました。
無抵抗主義は暴力に対抗する手段ではありますが、防衛ということになると少々話が別ではないでしょうか。
軍備だけが国防の手段ではないこと、国防手段としての外交や近隣諸国との連携について、護憲派の皆さんはもっと主張していただきたかったと思います。
また、(あたりまえのことですが)決して「交戦権の放棄イコール防衛権の放棄」ではないということも、強調していただきたかった。
「交戦権を持たないのは生物としておかしい」とおっしゃっている改憲派のかたもいらっしたので。
他方、改憲派のみなさんは「戦争」をどう捉えているのか。
防衛のためにはやむを得ないことだと言う前に、「戦争」の悲惨さについて本当に思いを巡らしたのか。
「改憲イコール戦争」ではない、とは言いますが、交戦権を認めるということは、国として公式に、戦争という行為を「場合によっては、やってもいい」と認めることです。
弱者が最大限の苦しみを受け、生命が消耗品あるいは標的でしかなくなる、人間同士の殺し合いを「場合によっては、やってもいい」と認めることです。
改憲派のみなさんは、戦争/戦場がどんなものであるか思いを致した上で、「場合によっては、やってもいい」と考えていらっしゃるのでしょうか。
私も含め、今生きている大多数の日本人は戦争を経験していません。
もし「私は戦争/戦場を経験していないが、それがどんなものかは想像できる」と言う人がいるなら、私は「それは嘘だ」と言いたい。
戦争を体験していない私たちが戦争の悲惨さを体験的に想像することは不可能です。
戦争経験のない者だけでなく、銃後に生き、戦場へ赴いたことのない人たちもまた、戦場の地獄のような状況を想像することは不可能であろうと、私は思います。
目の前の見知らぬ人間を殺さなければ、自分がこちらが殺される。
今まで隣に、あるいは前に、後ろにいた人間が、次の瞬間には血まみれの死体になっている。
または、内蔵を地面にぶちまけてのたうち回っている。
自分の手足、目鼻がちぎれ飛ぶ。
負傷者の血と膿の臭い、死体や人体の破片や臓物の放つ腐臭。
誰であれ、こうした状況を、ほんとうに、体験的に想像できようとは、私には思えません。
しかも、こうして非人間的な仕方で死んでいく人間の一人一人が(敵であろうと味方であろうと)絶対に交換不可能な個人の歴史を、思い出を、世界観を、個性を持っているということ、誰かを愛し、誰かに愛された「◯◯さん」という人間であるということ。
自分がその「◯◯さん」たちを永遠に帰らぬ人にする、その当事者となるということ。
これら全てのことを体感的に想像することが可能でしょうか。
もっとも兵器のハイテク化(なんとおぞましい言葉)が進んだ昨今のこと、戦争はもっと「スマートに」遂行され得るのでしょう。
そうであれば、戦争/戦場はますます人間の想像力の圏内から遠ざかって行きます。
体験者の話を聞けば、戦争が酷いことだということは分かります、ある程度は。
しかし想像力は、現実の戦争/戦場には決して追いつきません。
想像の試みが失敗すること。
哲学者ギュンター・アンダースは、
『われらはみな、アイヒマンの息子』で、この失敗を警告として捉えることを勧めます。
私達はまさにこの失敗を通じて、最後の分岐点に到達したことを認識できるのです。まさにこの失敗によって、「見通しの利かないもの」を発動させてしまうぞと警告されるのです。 p.62
* アンダース氏は本書で、想像力と現実との落差について、「把握しきれないほどの悲惨さ」というよりも「人間を取り巻くシステムの巨大化による見通しのきかなさ=世界の機械化」という文脈で語っています。私がここで、世界の機械化という文脈抜きで本書の言葉を引用するのは、アンダース氏の論を矮小化することになるかもしれません。それでも氏の言葉をお借りしたのは、氏が述べておられる、想像の失敗ののちに何をなしうるか、という論、は一定の文脈を離れてさまざまな場面に適応し得る、と考えたからです。
この分岐点ののちに、どういう行動をとり得るか。
道は二つあります。
・「見通しの利かないもの」を検討し、あるいはそれを拒絶し、あるいは闘う。
・想像力を限界点に置き去りにして、「見通しの利かないもの」に向ってつき進む。
ユダヤ人を粛々と絶滅収容所に送り続けたアイヒマン、そして多くの「アイヒマン的人間」-----ナチス政権下の一般的なドイツ人たち-----は、後者の道を選びました。
私達もそちらへ向うべきだとは思えません。決して。
恐ろしく悲惨なことらしい、しかし想像力は決して届かない、そのような行為。
それに対して「場合によっては、やってもいい」と認める。国家として認める。
それが正しいことだとは、私には思えないのです。
追記:武力や交戦権の否定は現実的ではない、という考えがありますが、私はむしろ歴史家ジョン・ダワー氏の以下の考えを支持したいと思います。
戦後の世界で「現実的」と呼ばれているのは、ほぼ例外なく武力による紛争解決であり、鼻っ柱の強い武力行使と結びついています。
その結果、私達の世界は混沌たる状況に突入してしまいました。今の世界は軍拡競争、大量破壊兵器、武器の拡散、そして畳み掛けるように続発する紛争に苦しめられています。私達はそうした現実主義のおかげで、今日、少しでも安全な世界に住めているでしょうか。現実主義は、まったくもって非現実的であり続けたわけです。現実主義こそが我々に大惨事をもたらしてきたのです。『映画日本国憲法読本』p.96